ウィルタ
ウィルタ民族 | |
推定346人(ロシア国内) | |
ロシア(サハリン州)、日本(網走市、札幌市) | |
ロシア語、ウィルタ語、日本語 | |
正教、シャーマニズム | |
アイヌ、ニヴフ、ウデヘ、ウリチ、オロチ |
ウィルタ(UILTA, Orok)は、樺太(現在のサハリン州中部以北)の民族で、ツングース系である。アイヌからはオロッコ (Orokko) と呼ばれた。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語である。
概要
第二次世界大戦前に日本領だった南樺太に居住して日本国籍をもっていた者は、日本の敗戦後に北海道(網走市など)へ移住したりした。1978年の時点では網走市に6世帯13人いたという調査結果が得られている。現在の人口は情報が乏しく、推測すら出来ないため不明となっている。
歴史
生活
衣服の内、肌の上に着る物は、魚の皮で作っていた。
日本のウィルタ人一覧
- 北川ゴルゴロ・・・日本名:北川 五郎、ウィルタ名:Daxinnieni Gorgolo、1899年頃 - 1978年 シャーマン。樺太出身。
- 佐藤チヨ・・・ウィルタ名:ナプカ、1910年? - 1985年)釧路市で逝去。
- ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ・・・日本名:北川源太郎、ウィルタ語名:Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu, 1926年頃(戸籍上:1924年(大正13年)3月17日) - 1984年7月8日)民族研究家。樺太出身。
ニヴフ
概要
樺太の他の先住民と同じく、古くは狩猟・漁猟をしていた。また近世には日本と清の貿易の仲介もしていた。
現在多くはロシア領内に住むが、第二次世界大戦前に日本領だった南樺太に居住して日本国籍をもっていた者は、日本の敗戦後に北海道(網走市など)へ強制移送されたり、進んで移住したりした。現在の人口は両国合わせて数千人と考えられるが、日本では明確な統計は存在しない。『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』(菅原幸助、現文社、1966)によれば1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。
ニヴフはオホーツク文化の担い手であったという説がある[1]。古来の中国大陸の文献に記載されている粛慎(しゅくしん、みしはせ)や挹婁(ゆうろう)は、一般にはツングース系の民族とされているが、『日本書紀』の粛慎はニヴフではないかとの指摘もある。なお、『日本書紀』に現れる粛慎と、中国大陸の文献に記載されている粛慎の存在時期には数百年の開きがあり関係性は不明である。
名称
ロシア革命前はギリヤーク(гиляк)と呼ばれていたが、現在では彼らの自称に基づいてニヴフ(нивх)と呼ばれている。「ギリヤーク」という名称はロシア語風に訛ったものであり、もともとは「ギリミ(吉里迷)」といった。その語源についてはギリャミ(гилями)「漕ぐ」に由来するとされ、ウリチ語のギラミ(гилaми)「大きな舟に乗る人々」がその意であるとされる[2]。「ニヴフ」という自称はアムール川下流部で「人」を意味する語に由来するものであり、樺太東岸ではニグヴン(Nigvyng)というが、これも「人」を意味する[3]。
歴史
元朝によるアイヌ攻撃
アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した[5]。翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。
ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指している[6](亦里于に関しては不明)。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[7]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、日本に対する侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。