Quantcast
Channel: 海洋文化交流/貿易振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 166

[転載]イギリス東インド会社( East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イン

$
0
0




イギリス東インド会社

   
企業形態 業種 その後 設立 解散 本社
イギリス東インド会社
East India Company (EIC)
合本会社
国際貿易
解散
1600年
1874年6月1日
イングランドの旗イングランドロンドン
テンプレートを表示
現在使われていない歴史的な旗?1707年から1801年までの社旗。カントン(左上部分)は母国旗の変遷に従って変遷し、当初イングランド王国旗、次いでグレートブリテン王国旗を経て最終的に現行と同じユニオンジャックとなる

イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、: East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリス勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。
当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。




概説

厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。
初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島バンテンインドスーラトに拠点を置き、マレー半島パタニ王国タイアユタヤ、日本の平戸台湾安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。
インドにおける会社の大拠点はベンガルカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年プラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。
ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし、同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。

歴史

特権会社のはじまり

チェンナイのセント・ジョージ要塞
1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった[1]。また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海モスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、1595年オランダジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。
レヴァント会社はオランダが直接、アジアから東方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの独占が打破されることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術、資本の蓄積では非常にリスクが高いものであった。そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で東インド会社が設立されることとなった。貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、東インド会社は自前の従業員を持つジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立された。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373ポンドの資金を集めた[2]この航海は成功に終わった[2]
その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本平戸に商館を設置した。
1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした[3]。しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された[3]
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。オランダ本国の意向を無視し、イギリス人を虐殺した。
とはいえ、1623年アンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイランサファヴィー朝)へ移っていった。今日、アンボイナ事件の歴史的意義を見直す動きもあり、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説を否定する主張もある[3]。それによると、あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンen:Jan Pieterszoon Coen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならないとの事である[3]
1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された[4]
当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに、出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却する方式であった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。1657年オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった[5]
ジョサイア・チャイルド
1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済は空前の好況が訪れた。1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。背景には、イギリス国内における「キャラコ熱」と呼ばれるほどの綿製品に対する需要があった。東インド会社の株式は投機の対象となり、インサイダー取引も横行する状況でもあった。その中で登場したのが、ジョサイア・チャイルドen:Josiah Child)である。東インド会社総裁に就任したチャイルドはインサイダー取引を駆使し、巨万の富を得たとされる。チャイルドは王室とも癒着関係を持っていた。
しかし、名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命令により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合同された[6]

マドラス以後の商館建設

ムンバイに建設された沈黙の塔
インド南東部・コロマンデル海岸にマドラスという拠点を獲得したイギリスであるが、それ以外の地域でも商館の建設に随時成功していった。1661年には、チャールズ2世ポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザが結婚した。この時の持参金の一部がボンベイである[7]。インド北西部での活動拠点をスーラトからボンベイへ移した際に、パールシーの商人や職人が移住した。ボンベイでゾロアスター教徒が活躍したことは、沈黙の塔en:Towers of Silence)が建設されたことでも分かる。ボンベイの人口は、1671年には10万人に到達した。
ボンベイについで獲得した主要な拠点がカルカッタである。1702年に、ウィリアム砦の建設を開始していたが、1717年、イギリス東インド会社は、ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルから、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得した。ベンガル地方は、当時のイギリスが求めていた産物の集散地であった。このことから、イギリス東インド会社の輸出の重心はカルカッタへと移動する。1750年には、イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになった[8]
とはいえ、17世紀のイギリス東インド会社の進出はあくまで、インドで産出される物産を独占することが目的となっていたため、必ずしも領土的野心を持って進出したわけではないことは明確にしておかなければならない。また、フランス東インド会社1664年に、コルベールの肝いりで設立されるとインドにおける貿易は、イギリス、フランス、オランダ、さらには、デンマークスウェーデンといった北欧諸国との競争が激化することとなった。

17世紀での貿易構造

イギリスはオランダとの抗争に敗れたため、香辛料という当時のヨーロッパで最も珍重されていた商品を失うこととなった。さらに、インドではイギリスで生産される毛織物製品に対しての関心を示さなかったことから、銀をイギリス国内から持ち出さざるをえなかった。また、インドで産出される綿織物を購入するために、バンダレ・アッバースの存在は必要不可欠であった。イランには砂糖胡椒、香辛料を輸出し、その代金でといった金属を手に入れることができた[9]。イギリスは香辛料に変わり、硝石紅茶、綿織物製品をヨーロッパに輸出した。金額では1670年には、36万ポンドだったのが、1740年には、200万ポンドに到達していた。加えて、ヨーロッパにおけるインド製品の需要によって、当時のインド商人や手織り業者に多くの富がもたらされることとなった[10]
また、インドにおいてもイランにおいても、イギリス東インド会社の進出が可能だったのは、現地からの招聘、協力がなければ不可能だったということである。バンダレ・アッバースにおいて徴収される関税の半額を取得できる権利はアッバース1世が存命の間は享受することができたが、1629年にアッバース1世が死亡するとバンダレ・アッバースの港湾長官は、その金額の引き下げを講じるようになった。最終的には毎年1,000トマン(イランの通貨単位)を獲得するという条件を引き出すことに成功した。このことは、1720年代に、イランの内陸部が混乱状態に陥り、バンダレ・アッバースでの貿易量が減った際でも、イギリスは獲得することができた。この金額はバンダレ・アッバースにおける商館の収入の33-41%に達した[11]

会社組織の変質

ロバート・クライヴ
18世紀前半のインド亜大陸の情勢を要約すると以下のような状況となる。
  1. ムガル帝国の衰退が顕著となった。全盛期を築いた皇帝アウラングゼーブの死去以降、帝国は経済力を貯えた地方長官、ザミーンダールの台頭に対して有効な手を対処できなくなっていた。1724年には、ハイダラーバードを中心にニザーム王国が形成され、続く形でベンガルアワドなど各地で地方王朝が建国された。
  2. フランス東インド会社の台頭が目立つようになった。大幅な増資を行い、現在の株式会社に近い運営が行われた。また、強化された資金をもとに、艤装された商船が増えた。1740年カルナータカ太守の領土がマラーターの軍勢に攻撃され、この攻撃で太守ドースト・アリー・ハーンが死亡した[12]。フランスは太守の息子サフダル・アリー・ハーン以下家族をポンディシェリーの要塞に避難させた。その後、フランスはポンディシェリー近郊の村を委譲され、この地域の支配者となった。このことは、フランスが今後のインド亜大陸における政争に関与せざるを得ないという状況に追い込まれることとなった[13]
このような状況の中で、ヨーロッパでは、オーストリア継承戦争が勃発することとなった。フランス東インド会社、イギリス東インド会社ともに、軍事的に強化されていた。インド亜大陸でも、3次にわたって、それぞれの会社の軍が衝突することとなった(カーナティック戦争)。
ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスの活躍により、戦争の初期段階では、フランスがイギリスを圧倒する。しかし、フランス政府は、フランス東インド会社をあくまでも「商事会社」と認識していたことにより、デュプレクスの召還に踏み切った[14]
デュプレクスの召還は、イギリスに優位に働いた。当時のベンガル太守シラージュ・ウッダウラはイギリス、フランス、オランダの活動を快く思っておらず、イギリスに対してはカルカッタの要塞への攻撃を行い、フランス、オランダに対しては上納金の引き上げを要求した。これに対抗するため、マドラスに就任したばかりであったロバート・クライヴがベンガル地方に赴き、1757年6月23日プラッシーの戦いで太守軍を撃破した。プラッシーの戦いを境に、イギリス東インド会社の性質は大きく変化した。
プラッシーの戦いにより、シラージュ・ウッダウラは殺害されることとなり、軍総司令官のミール・ジャアファルが太守の地位に就任した。ミール・ジャアファルとクライヴの間では、密約が成立しており、ミール・ジャアファルの裏切りがシラージュ・ウッダウラの敗北を決定付けた。その結果、イギリス東インド会社はベンガルにおける覇権を確立していく。イギリス東インド会社は、ミール・ジャアファルを援助していく過程で、ベンガルの内政への干渉を進めていった。
1765年、イギリスはブクサールの戦いの講和条約アラーハーバード条約で、イギリス東インド会社は皇帝シャー・アーラム2世からベンガル、オリッサビハールディーワーニー(州財務長官の職務・権限)を授けられ、財務長官に就任することなった[15]。イギリスは太守の職を得たわけではなかったが、この3州の収租権を得たということはこの三州における「太守」になったも領有権を得たも同然であった[16]。また、これ以降皇帝とベンガル太守はイギリスからの年金生活者となったが、皇帝の方はのちに折り合いが悪くなり、イギリスのもとを離れてデリーへと戻った。
イギリス東インド会社はベンガル、ビハール、オリッサという広大な地域をベンガル管区に組み入れることに成功した。クライヴの快挙には、競争相手であったオランダ、フランスに対しての優越を獲得した意義があったが、この時よりイギリス東インド会社は組織の変質を余儀なくされていった。イギリスは事実上の太守になったことで豊かな税収を得るはずだったが、その数年後には、全く逆の状況に追い込まれていった。その理由は以下の通りである[17]
  1. 配当金の引き上げ。従来の配当率は7から8%程度であったものが、ベンガルほか2州獲得によりイギリス東インド会社株は本国での投機の対象となった。その結果、1771年には、12.5%まで引き上げられた。
  2. 東インド会社の主力商品である茶の売り上げがアメリカ植民地で全く振るわなくなった。大量に購入した茶は不良在庫品となった。
  3. 商事会社の運営に長けていた東インド会社の社員も、徴税業務、すなわち当時のベンガル管区の人口2000万人を統治することに関しては従来の会社運営のシステムでは限界があった。
  4. 南インドにおけるマイソール王国北インド及びデカン地方におけるマラーター王国をはじめとする勢力との敵対関係が継続していた。そのための軍事費も会社側の負担であった。
  5. さらに、1770年には、人口の25%が餓死するベンガル大飢饉en:Bengal famine of 1770)が発生した。このことにより東インド会社の徴税活動は困難となった。
これらの複合的な要因が重なり、イギリス東インド会社は、財政危機に直面することとなった。

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光


Viewing all articles
Browse latest Browse all 166

Trending Articles