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生月島(いきつきしま)は、長崎県の平戸島の北西にある島で全島が長崎県平戸市に属する/日本の捕鯨の歴史/生月町博物館「島の館」

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生月島   

生月島座標面積最高標高 所属国・地域
Ikitsuki Hirado Nagasaki.png
北緯33度23分11.1秒東経129度25分50.4秒 / 北緯33.386417度 東経129.430667度 / 33.386417; 129.430667座標: 北緯33度23分11.1秒東経129度25分50.4秒 / 北緯33.386417度 東経129.430667度 / 33.386417; 129.430667(平戸市役所生月支所)
16.57 km²
(番岳)286 m
日本の旗日本長崎県平戸市
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生月島(いきつきしま)は、長崎県平戸島の北西にある(有人島)である。全島が長崎県平戸市に属する(2005年10月1日の現平戸市発足以前は北松浦郡生月町)。

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生月大橋(いきつきおおはし)は、長崎県平戸市平戸島生月島を両島を隔てる辰の瀬戸を跨いで連絡する道路橋トラス橋)である。この橋の開通で離島だった生月島は平戸島と平戸大橋を通じて九州本土とつながった。
全区間を生月大橋有料道路の一部として長崎県道路公社が管理していたが、2010年4月1日より無料開放された[1]
総工費約46億円。2004年度の通行台数921,920台。


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地理

平戸島北西端の呼崎から辰ノ瀬戸を挟んで北西に位置する。南北約10km・東西約2kmの島で、南北に細長い形をしている。辰ノ瀬戸の最も狭い部分は約700mで、ここに1991年(平成3年)に生月大橋が開通し、平戸島と結ばれた。
島の東側はゆるやかな丘陵状になっている一方、東シナ海を望む西側には断崖が随所にあり、海岸の一部は西海国立公園に指定されている。そのため各施設や民家はほとんどが島の東側に集中している。



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概要

歴史

戦国時代に、生月島南部の領主で平戸松浦氏の重臣だった籠手田安経キリスト教カトリック)の洗礼を受けてキリシタンになり、その後イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラルイス・デ・アルメイダらが生月島で布教をおこなって約2,500人の島民のうち800人ほどがキリシタンとなった[2]。16世紀末にはほぼ全島民がキリシタンとなったが、その後の禁教令により島を離れたり殉教したり、また多くの島民が隠れキリシタンとして密かに先祖から受け継いだ信仰を維持する道を選んだ。現在は、島内に2ヶ所のカトリック教会があるが、いまも潜伏時代の隠れキリシタンの信仰形態をそのまま受け継いでいる人も多くいる[3]

江戸時代には益富組を中心とした沿岸捕鯨が活発に行われ、平戸藩の財政を支えていた。
戦後は東シナ海の巻網漁業に進出、最盛期には20以上の大型巻網漁船団を擁し、島の経済は大いに潤った。近年は漁獲量の減少などにより船団数も激減している。

島名の由来

生月(いきつき)という島名の由来は、遣隋使遣唐使の時代に中国から日本へ帰国する旅人が、船上からこの島を見つけると、無事に帰ってこられたと安心してホッと息をついたことから、といわれている。(よく壱岐対馬の一部と思われることがあるが、所在場所は全く異なる)



名所・旧跡・観光スポット

生月大魚籃観音

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日本の捕鯨の歴史

日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている。
江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている。



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先史捕鯨時代

日本における捕鯨の歴史は、すでに漁労活動が行われていた縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、(やす、矠とも表記)先の石器が出土していることや、約5000年前の縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている。
弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨[1]を解体していたと見られている。

北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うといい、これはコディアック島などの先住民による捕鯨と共通する。鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという。


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初期捕鯨時代

奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。
鎌倉時代鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている。
海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた。



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突き取り式捕鯨時代

突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある。
鯨記』(1764年明和元年著)によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたのは1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。16世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年土佐国長宗我部元親豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年慶長15年)に著したとされる『慶長見聞集』によると、尾張伊勢では鯨を突いていたが、関東では突くことはなかった。文禄期(1592~1596年)に尾張の鯨突きの間瀬助兵衛相模三浦に来て、鯨の突き取り漁が三浦半島に伝わったことが記述されている[2]
戦国時代末期にはいると、捕鯨用のが利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾熊野水軍を始めとする各地の水軍海賊出身者たちであった。紀州熊野太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年(元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸安房沖、遠州灘土佐湾相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている。
1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている。



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網取り式捕鯨時代

1677年には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だった座頭鯨を対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した[3]
さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、・・・もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。

当初は遊泳速度の遅いセミクジラコククジラなどを穫っていたが、後にはマッコウクジラザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方の太地浦、紀州藩営鯨方の古座浦、新宮領主水野氏鯨方の三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。

土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き、1683年に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる。
『古式捕鯨蒔絵』、太地

江戸時代の捕鯨産業

鯨の多様な用途
江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると[4]、鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は(こうがい)やなどの手工芸品に、毛は綱に、皮はに、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた。
組織捕鯨と産業
江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英シーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる。
捕鯨を生業としない地域の紛争
鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨がもたらす多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った。


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