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[転載]1840年代の東アジア3 島津斉彬と琉球の交流について

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1840年代の東アジア3 島津斉彬と琉球の交流について

1844年にフランス人が来航したとき、薩摩藩と交流はどれほどあったのであろうか。
1853年以降については別途項を改めるとして、40年代については下記のものがくわしかった。

悲劇を生きた沖縄の偉人 板良敷(牧志)朝忠「いたらしき (まきし) ちようちゅう」
第7話 http://www.geocities.jp/shioji2002/itarashiki-7.htm

引用させて頂く。
『 比嘉春潮によると、仏人(1844年セシル提督)による琉球開港への武力での威嚇(イカク)は薩摩を狼狽させ、江戸への急報となり、大老の阿部正弘の指揮を仰ぐこととなった。阿部は重大問題として、藩主の島津斉興にではなく息子の斉彬へ意見を求めている。これまでも建白書で琉球窓口外交論を説いていた斉彬は、「琉球は日清両属であり、もし異国人が清国の許しを得て通信貿易を請うことになると、琉球王はこれを拒むことはできない。そうなると日清両国が紛争に陥り、これは国家の良計ではない。琉球を日本域外に置き、通信貿易の2件は琉球を限りに黙許するのが良策。宗教は固く拒絶するのが良い。」との意見を述べたらしい。まさに斉彬のその後の行動の布石そのものをみる意見である。この9年後にペルリの来航となる。
 一方、阿部はこの意見を受け入れて、江戸詰の斉彬を直ちに鹿児島へ帰任させ、「将軍も同意したので、いちいち存意に任せて処理し、機宜に応じて後患のないようにせよ。もとより琉球は外藩だから、幕府は強いて干渉はしない。それでいちいち幕府の指令を受けるに及ばず、専断に事を処してよろしい。」と言っている。
 琉球王府の平和外交に通じる柔軟な外交姿勢をとったのは、老中阿部正弘であったと、原口泉氏(当時鹿児島大学助教授)が琉球新報(1995年頃) 「フューレ書簡と幕末政治史」のなかで説明している。当時の政治状況を知るためには非常に参考になるので、いま少し引用させていただく。
「阿部は、牧志が島津斉彬に報告したと思われる、ペリー浦賀来航の情報に接しながら、現場の浦賀奉行所に通知しなかった。通知すれば、武装を固めて打ち払う体制を整えねばならない。幕府に対しては攘夷の旗頭を掲げた水戸斉昭が目を光らせている。阿部としては、苦肉の策であったにちがいない。」』

つまり、昨年の大河ドラマでは始めのころに出ていた阿部正弘は、斉彬に逐一相談し、水戸の斉昭に秘密で将軍の承諾も得ていた。おそらく、1840年代から薩摩とフランスの貿易が行なわれたことは間違いない。このことについての具体的な資料は引き続き探してみたい。

転載元: 飛耳長目 国際紛争の心理


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