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[転載]1840年代 福州琉球館と欧米勢力 琉球は注目されていた

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1840年代 福州琉球館と欧米勢力 琉球は注目されていた

福州琉球館では、琉球との交易を独占していたので、清国にとってもきわめて経済的に重要な地であった。アヘン戦争の結果、欧米列国は福州の開港を求め続けた。

ここに至るには、英国のマカートニー使節団が北京から戻る時、北京に向かう琉球の進貢使節団と遭遇し、会見したところから始まる。これは1793年11月18日である。

ここで、英国ができない中国貿易を、琉球(日本)が定期的に行っていることを知ったのである。ここから、欧米は琉球に関心を向けた。1832年、アマースト号が非合法に中国沿岸を回った後、8月に琉球の那覇港に入った。アマーストの通訳をしていたギュツラフが鎖国禁教下の沖縄で聖書を頒布し、伝導を行った。

アヘン戦争末期の中英交渉の中で、福州にこだわった理由は、まさに琉球貿易の拠点であるためであった。中国側の反対を押し切り、開港都市に指定されると、アメリカ船が1843年(道光23年)、イギリス船が1844年に入港、45年にはイギリス船が3隻福州へ寄港した。
44年6月に福州が開港されると、英国は李太郭(G.T.レイ)を領事とした。しきりに琉球側と接触、しかし、清国側も、琉球館の役人たちも、英国の提案を受け入れなかった。

ここで、琉球館について述べておく。
明、清の時代、琉球側は二年一貢、つまり二年に一回の進貢士の派遣を認められていて、約300人が二隻の進貢船で福州へ派遣されていた。
ほかに、接貢船派遣も認められていた。
琉球館内には、彼らの宿泊施設があり、生活費は中国側の負担であった。 
使節団は、進京グループ、摘回グループ、存留グループに分かれ、存留役人は約3年で交代した。

琉球館は、中琉貿易センターとして機能し、積載貨物は琉球館に運び込まれた。琉商(客商)といわれる中国商人に売り渡されるとともに、彼らが中国各地で購入した商品も持ち込まれ、貿易されたのである。
土通事という中国人の琉球語通訳が大きな役割を果たした。
琉商は、十家琉商といわれる有力商人団を形成していた。また、琉球館には、勤学人といわれる留学生もおり、3年から6年滞在して勉強していた。この中には、程順則(龍文)などがいる。

アヘン戦争時の広東情報は、琉商を通じて、琉球館の存留通事へ伝えられ、僅差大臣の林則徐も琉商に手紙を託している。太平天国軍が蘇州を攻撃した情報は、琉商から土通事、存留通事、琉球王府、薩摩藩を経由して、江戸幕府まで伝えられた。

1850年代に英国の福州領事代理であったシンクレアは、琉球の進貢貿易に強い関心を向け、進貢貿易を利用して、イギリス製品を琉球経由で日本に輸出することを提案した。
琉商を通じて、英国製品を中国内陸に持ち込むことも計画した。しかし、福州と上海の貿易競合もあり、成功しなかったが、中琉貿易の中で英国製品が増加した。


参考
西里喜行 中琉交渉史における福州琉球館の諸相 琉球大学教育学部紀要 68集


1830年代の東アジア2 アヘン戦争前の清国の政治状況2
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/26424435.html

1840年代の東アジア4 1840年代の琉球王国 英国のベルチャーとフランスのセシル提督、ラグルネ全権大使の琉球支配の試み
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/23385039.html

転載元: 飛耳長目 国際紛争の心理


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