コリャーク人
コリャーク人(コリャークじん。もしくはコリヤーク人、コリャク人。露: Коряки英: Koryak, Koriak)は、ロシア連邦極東のカムチャツカ地方の先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナディリ川流域南部およびチギリ村を南限とするカムチャツカ半島極北部にかけて居住している。体つきや生活習慣などが極めて似ているチュクチ人と同系であるほか、カムチャツカ半島のイテリメン人とは遠い同系である。
コリャーク人はおおまかに二つの集団がある。沿岸に生活する集団は定住して漁業を営んでいるため、「村人」を意味する Nemelan(またはNymylan)と呼ばれ、トナカイ遊牧を営む内陸のコリャーク人は、放浪がちの「トナカイ長者」を意味するChauchen(またはChauchven)と呼ばれる[1]。
語源
「コリャーク」という語は、チュクチ・カムチャツカ語族の同族言語で、コリャーク人が「トナカイ (kor) とともにある」を意味するKorakと呼ばれていたことから来ている[2]。
Koryakという語がはじめて記録されるのは、ロシア人探検家、ステパン・クラシエニンニコフが1775年に記録したものが最初である。Korakから派生したKoryakという名前がロシアの公文書で使われるようになり、以来一般化した[2]。
起源
氷河期を通じて、人々はその地域を通って両大陸へ渡った。さまざまな民族が氷河期終焉以前に行き来し、そしてコリャークは北アメリカからシベリアへの逆移住である可能性が高い[1]。文化と言語において、ニヴフ人とコリャーク人には類似点がある[3]。オホーツク人との関連性も指摘されている。
歴史
コリャーク人はかつて極東ロシアのより広汎な地域を移動していた。640年の「流鬼」という人々が唐に入貢したとき、「自分たちの住む地より北に1ヶ月行程の先に夜叉という国がある」と伝え、その「夜叉」が古コリャーク人であるとする見解がある[4]。ハバロフスク地方のニヴフ人居住域と重なるまでに拡大していた彼らの行動域は、エヴェン人の登場とともに、現在の地域へと限定された[3]。
1769年から1770年にかけて、コサックとの交戦と天然痘の流行のために、1700年に1万から1万1,000人いた人口は1800年には4,800人にまで減少した[5]。コリャーク自治管区が1931年に設けられたが、2007年6月1日をもって、カムチャツカ地方に合併された[1]。
社会
おおよそ6-7家族で集団を作り、首長は支配的な主権を持たず、構成員がすべて平等である小グループといった体をなす。
宗教
シャマニズムを媒介として、コリャーク人はアニミズム的信仰を持っている。コリャーク人の神話は、最初の人間でありコリャーク人の守り手であるQuikil(大烏の意味)という超自然的なシャマンを中心とした物語である[1]。
環境
コリャーク人の生活区域は、山がちで、ほとんどが北極のツンドラ地帯である。オホーツク海沿岸のシェレホフ海岸の付近の南部地域には、針葉樹林がある。北部はより寒く、数種の灌木が生育するのみだが、トナカイを放牧するのに不足するほどではない[1]。