オホーツク文化
オホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性が示されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。
なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。
時代と分布
オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。
そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。
中期は7世紀から8世紀で、活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。9世紀から10世紀の後期には、土器の様相が各地で異なる。終末期の11世紀から13世紀には土器の地域的な差違がさらに明確化する。
9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した。樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。
生活
秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われた。アザラシ、オットセイ、トド、アシカなどの海獣も冬に得られた。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかった。遺物に描かれた絵[1]や船の土製の模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっている。
また、弥生時代以降の本州と同様に家畜である豚と犬を飼い、どちらも食用にしていた。道東では豚飼育は低調だった。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩った。そこでは毛皮獣の比重が高く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられている。
集落は海岸のそばに置かれた。住居は竪穴式で、何十人も収容できる大型の住居と、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居があった。大規模住居は中心集落で見られる。オホーツク人は、秋から春までは中心集落に住んで共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散したと考えられている。住居の一部に動物の骨を並べる風習があった。並べられた動物は様々だが、特に熊が重要視されていた。熊の重視は、道具類の意匠にも見られる特徴である。
道具としては、オホーツク式土器、石器、骨角器、木器がみられる。本州からの交易で入手した蕨手刀が副葬品として見つかっているが、実用品として普及するほどの数はなかったらしい。実用品の装飾に動物の意匠を用いたほか、牙や骨で作った動物や女性の像が作られた。
起源と末裔
オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている[2]。
オホーツク人の系統については、少ない文献と考古学的証拠をてがかりに古くから論議を呼んできた。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である(外部リンク参照)。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化、トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。[3]
オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている[4]。
オホーツク人の遺伝子
2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[5][6]。
近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[7]。アイヌ民族は縄文人や和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。
文献史料
日本書紀には、7世紀に阿倍比羅夫が遠征の航海の途上、大河の河口で蝦夷と粛慎の交戦を知り、幣賄弁島(奥尻島とも言われる)で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とするのは、分布域と航海能力からいって無理がない解釈であるが、確証はない。
主な遺跡
ニヴフ
概要
樺太の他の先住民と同じく、古くは狩猟・漁猟をしていた。また近世には日本と清の貿易の仲介もしていた。
現在多くはロシア領内に住むが、第二次世界大戦前に日本領だった南樺太に居住して日本国籍をもっていた者は、日本の敗戦後に北海道(網走市など)へ強制移送されたり、進んで移住したりした。現在の人口は両国合わせて数千人と考えられるが、日本では明確な統計は存在しない。『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』(菅原幸助、現文社、1966)によれば1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。
ニヴフはオホーツク文化の担い手であったという説がある[1]。古来の中国大陸の文献に記載されている粛慎(しゅくしん、みしはせ)や挹婁(ゆうろう)は、一般にはツングース系の民族とされているが、『日本書紀』の粛慎はニヴフではないかとの指摘もある。なお、『日本書紀』に現れる粛慎と、中国大陸の文献に記載されている粛慎の存在時期には数百年の開きがあり関係性は不明である。
名称
ロシア革命前はギリヤーク(гиляк)と呼ばれていたが、現在では彼らの自称に基づいてニヴフ(нивх)と呼ばれている。「ギリヤーク」という名称はロシア語風に訛ったものであり、もともとは「ギリミ(吉里迷)」といった。その語源についてはギリャミ(гилями)「漕ぐ」に由来するとされ、ウリチ語のギラミ(гилaми)「大きな舟に乗る人々」がその意であるとされる[2]。「ニヴフ」という自称はアムール川下流部で「人」を意味する語に由来するものであり、樺太東岸ではニグヴン(Nigvyng)というが、これも「人」を意味する[3]。
歴史
元朝によるアイヌ攻撃
アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した[5]。翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指している[6](亦里于に関しては不明)。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[7]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、日本に対する侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。
間宮林蔵とニヴフ
習俗
衣服
下着にはズボン下とシャツがあり、その上からズボンと、膝まで達するシャツを着る。シャツは左から右へ合わせ、首と胸のところでとめる。肌着は中国製の青または灰色の木綿でつくられる。暖かい時には下着だけのことが多いが、夏でも寒い日には犬の毛皮の外套(ロシア語ではシューバ шyбa)を着こんだ。履物はアザラシの皮製長靴であり、甲の部分と靴底は毛を取り除いたアザラシの皮を利用し、胴の部分は毛を表にしたアザラシの皮で膝まで達し、ズボンをその中に入れて紐で縛り付けた。かぶり物は雨と日光を避けるためにヒブハク(hib-hak)と呼ばれる笠をかぶる。女性はロシア語ではハラート(xaлaт)と呼ばれる膝下まで達する魚皮製のシャツを着る。
飲食物
主として魚・肉を食べる。魚はサケ類やチョウザメであり、干し魚や刺身にして食す。肉は主にアザラシであり、アザラシは煮て食す。他には熊,キツネ,オオカミ,アナグマなども食す。また、干し魚(マ)は魚油または海獣油にひたして食べる。
住居
間宮林蔵やシュレンクはニヴフの建物を4つに分類している。
- 穴居
- 穴居せざる者の居家
- 穴居する者夏居る処の家
- 倉庫
「穴居」というのは半地下式住居のことで、ニヴフ語で「トルフ toryf」と呼ばれる。現在では見られなくなったが、1960年代までは存在していたとみられる[8]。外観は土まんじゅうの形をなしており、冬には雪に覆われ、煙出しの部分だけが黒く見える。内部は木でピラミッド状の骨組みが組まれ、その上から土をかぶせて外壁としている。天井にはタマ・クティ(tama khuty)と呼ばれる煙出し穴があるが、明りとりの役割もあった。入口は必ず東向きに造られ、土まんじゅうから突き出ている。半地下なのでしきいと土間の間に段差があるため、階段がある場合とない場合があり、いくらか危険がある。
「穴居せざる者の居家」というのは19世紀になって、ニヴフに広まった穴居に代わる住居スタイルであり、ニヴフ語で「チャドルフ chadryf」と呼ばれるものである。これは丸太を組んだログハウス状の家屋であり、半地下ではなく地上型となったため、窓ができて明りとりがしやくすなったが、冬に寒風が吹きこんでくるという問題点があった。内部は土間があり、かまどが2つある。土間の中央には犬を飼うための長い板(kangyl)が設けられていた。
「穴居する者夏居る処の家」というのはニヴフの夏期の家屋であり、「ケルフ keryf(海の家、海岸の家)」と呼ばれる。ニヴフは10月から5月までは冬用の家で暮らすが、5月から10月は夏用の家で暮らす。夏季用住居は地上にそのまま建てる地上式と、杭上に建てる高床式があった。
「倉庫」というのは高床式倉庫のことで、ニヴフ語で「ニョ nyo」と呼ばれる。構造は夏季用住居のケルフとほぼ同じであるが、食糧庫として利用されていたため、杭(切り株)の上にはネズミ除けが設けられていた。
氏族
スモリャクの調査によると、19世紀末から20世紀初頭にかけてギリヤークの氏族は67を数えた[9]。氏族名は熊,アザラシ,鳥などの動物名、人のあだ名、一年の月名、場所名などに由来するものが多かった[10]。
楽器[
言語系統
Y染色体ハプログループ
ニブフのY染色体ハプログループの構成比は、C2が8/21=38.1%、O(O1a,O2を除く)が6/21=28.6%、P(R1aを除く)が4/21=19.0%、R1aが2/21=9.5%、その他(A,B,C,D,E,Kを除く)が1/21=4.8%である。(田島等の2004年の論文"Genetic Origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages"による)。
日本のニヴフ人一覧
- 中村チヨ(なかむら ちよ、1906年 - ?)樺太生まれ。父が山丹人(ウリチ)。母がニヴフ。ニヴフのウシク・ウーヌ(wysk wonη)と結婚し、1947年に北海道に引き揚げる。その後は、岩内に2年住んだのち、網走に移住。