七年戦争
![]() ロイテンの戦いの夜のフリードリヒ大王 | |
戦争:七年戦争 | |
年月日:1756年 - 1763年 | |
場所:ヨーロッパ、アフリカ、インド、北アメリカ、フィリピン | |
結果:イギリスとスペインがフランス領北米植民地を獲得 プロイセンのシレジア領有が固定化 | |
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![]() ロイテンの戦いの夜のフリードリヒ大王 | |
戦争:七年戦争 | |
年月日:1756年 - 1763年 | |
場所:ヨーロッパ、アフリカ、インド、北アメリカ、フィリピン | |
結果:イギリスとスペインがフランス領北米植民地を獲得 プロイセンのシレジア領有が固定化 | |
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![]() 左上から時計周りに: バンカーヒルの戦い、ケベックの戦いにおけるリチャード・モントゴメリー将軍の死、カウペンスの戦い、サン・ビセンテ岬の月光の海戦 | |
戦争:アメリカ合衆国独立戦争 | |
年月日:1775年-1783年 | |
場所:北アメリカ東部(今日の アメリカ合衆国とカナダ)、大西洋、地中海、カリブ海 | |
結果:パリ条約; アメリカ合衆国の独立(イギリスの敗北) | |
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アメリカ軍 250,000名 フランス軍 15,000名 スペイン軍 8,000名 総計: 273,000名 | イギリス軍 12,000名 ロイヤリスト 50,000名 ドイツ人傭兵 40,000名 インディアン 5,000名 総計: 107,000名 |
戦死または戦病死 25,000名 負傷 25,000名 | 戦死または戦病死 24,000名 負傷 20,000名 |
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合本会社 | |
国際貿易 | |
解散 | |
1600年 | |
1874年6月1日 | |
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英西戦争中 | ||||
![]() アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』(Defeat of the Spanish Armada)フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ (en) 画、1797年。 | ||||
時 場所 結果
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第2代ハワード男爵 フランシス・ドレーク | メディナ=シドニア公 | |||
軍艦34隻[1] 武装商船163隻 (200トン以上30隻)[1] 快速船 (en) 30隻 | 軍艦28隻 武装商船102隻 | |||
アルマダの海戦: 戦死50–100人[2] 戦傷400人 火船8隻焼失[nb 1] 戦病死: 数千人[3] | アルマダの海戦: 戦死600人以上 戦傷800人[4] 捕虜397人 喪失9~11隻[5][6] 遭難と戦病死: 難破・行方不明54隻[5] 死者20,000人[7] |
串山ミルメ浦遺跡 | 貝塚・遺物包含地 | 縄文時代~古代 | 壱岐市 |
天ケ原遺跡 | 祭祀跡・遺物包含地 | 弥生時代、古墳時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | 天ケ原遺跡(あまがはらいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町東触字菖蒲坂 | ||
緯度 | 北緯33°51′21″ | 経度 | 東経129°42′30″ |
標高 | 5m | 地形 | 砂丘 |
種別 | 祭祀跡・遺物包含地 | 時代 | 弥生時代、古墳時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『串山ミルメ浦遺跡』勝本町文化財調査報告書第4集 1985 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は、壱岐の最北端に位置し、天ケ原から小串へと伸びる砂州上にあり、北東側は外海に接している。遺跡内の道路工事および護岸工事の際に、朝鮮半島系の無文土器、古墳時代~奈良時代の土師器・須恵器などが出土している。また、昭和36年(1961)には、海岸の波打際にあったセジョウ神と呼ばれていた石祠の地下80cmほど下から、中広銅矛3本が出土している。この遺構は、青銅器の埋納遺構と考えられ、壱岐の最北端に位置することから、異国から招来する悪霊や疫病等対しての境界祭祀の可能性をもっている。壱岐では、銅矛は天ケ原遺跡の3本と原の辻遺跡の2本、熊野神宮に伝世する1本の合計6本が知られるに過ぎないが、対馬では100本を超える数の銅矛が出土しており、航海安全を祈る祭祀にも使われたことが推測されている。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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松崎遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
カラカミ遺跡 | 遺物包含地・貝塚 | 旧石器時代、弥生時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | カラカミ遺跡(からかみいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町立石東触字カラカミ、国柳、川久保 | ||
緯度 | 北緯33°47′28″ | 経度 | 東経129°41′48″ |
標高 | 80m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 遺物包含地・貝塚 | 時代 | 旧石器時代、弥生時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 市指定 |
参考文献等 | 『カラカミ遺跡』勝本町文化財調査報告書第3集 1985、同6集 1988 『地域拠点遺跡内容確認発掘調査報告書2』長崎県文化財調査報告書第185集 2005 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は、壱岐島の中央よりやや西側に位置し、刈田院川上流の標高80mほどの丘陵に立地する。大正8・9(1919・20)年頃に発見され、昭和初期に在地の研究者松本友雄によって中央学会に紹介された。昭和27(1952)年には東亜考古学会、昭和52(1977)年には九州大学、昭和57~59(1982~84)、62(1987)年には勝本町教育委員会が主体となり、発掘調査が実施され、鯨骨や獣骨製、石製の漁労関係遺物、楽浪土器や三韓土器などの大陸から舶載された土器、後漢鏡片などの青銅器、鉄器、占いの卜骨などが出土し、原の辻遺跡に比較すると農耕的な要素が乏しく、漁労や交易(南北市糴)に従事した集団の基地的な集落跡であったことが推測される。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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対馬塚古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
双六古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
笹塚古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
掛木古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
石路遺跡 | 集落跡 | 弥生時代・古墳時代 | 壱岐市 |
遺跡名 | 石路遺跡(いしろいせき) | ||
所在地 | 壱岐市勝本町立石西触字樽見 | ||
緯度 | 北緯33°47′57″ | 経度 | 東経129°40′42″ |
標高 | 50m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 集落跡 | 時代 | 弥生時代・古墳時代 |
資料所在地 | 壱岐市教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『片苗イシロ遺跡』勝本町文化財調査報告書第5集 1987 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は壱岐島の西岸、勝本町と郷ノ浦町との境界に近い湯ノ本湾の支湾の一つで、片苗湾に面した丘陵部に位置する。遺跡は、地元研究者の松本友雄によって大正末年から昭和初年に発見された。1986年には、個人の畑地基盤整備に伴って勝本町教育委員会が発掘調査を行い、古墳時代初頭の竪穴住居跡1軒、石囲墓4基、多数の柱穴跡が確認されている。この片苗湾東岸の丘陵は、中世に「片苗千軒」と称され、多くの人が住みつき栄えていたといわれており、弥生時代から引き続いて生活が営まれた海民集落であったことが考えられる。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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勝本城跡 | 城館跡 | 中世(近世初期) | 壱岐市 |
百合畑古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
鬼屋窪古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大原天神の森古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
松尾古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
鎌崎遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
名切遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代 | 壱岐市 |
亀丘城跡 | 城館跡 | 中世、近世 | 壱岐市 |
車出遺跡 | 遺物包含地 | 弥生時代 | 壱岐市 |
大米古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大宝遺跡 | 遺物包含地 | 旧石器時代、古代、中世 | 壱岐市 |
遺跡名 | 大宝遺跡(たいほういせき) | ||
所在地 | 壱岐市郷ノ浦町志原南触字大宝 | ||
緯度 | 北緯33°44′43″ | 経度 | 東経129°43′14″ |
標高 | 54m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 遺物包含地 | 時代 | 旧石器時代、古代、中世 |
資料所在地 | 原の辻遺跡調査事務所 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『大宝遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第14集 1999 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
本遺跡は、壱岐島南部の内陸にあり、谷底平野の谷頭の標高54mの丘陵に立地している。県営ほ場整備事業に伴って、平成10年度(1998)に発掘調査が実施され、古代から中世にかけての遺構・遺物が出土した。遺構では、掘立柱建物4棟、溝4条、柱跡群などが検出された。遺物では、奈良時代8世紀~9世紀の須恵器・土師器、9世紀~13世紀代の中国製青磁・白磁、新羅土器、国産の緑釉陶器、瓦質土器、玄界灘式製塩土器、滑石製石鍋、鞴の羽口、鉄滓などが出土している。遺構や遺物の出土状況から判断すれば、官衙的な施設というよりも地元有力者の居館的な様相をもっていることが推測される。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鬼の窟古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
兵瀬古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
壱岐嶋分寺跡 | 社寺跡 | 古代 | 壱岐市 |
カジヤバ古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
覩上山古墳群1号墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
大塚山古墳 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
妙泉寺古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
百田頭古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
釜蓋古墳群 | 古墳 | 古墳時代 | 壱岐市 |
覩城跡 | 城館跡・遺物包含地 | 弥生、古墳、中世 | 壱岐市 |
遺跡名 | 覩城跡(とじょうあと) | ||
所在地 | 壱岐市芦辺町湯岳今坂触 | ||
緯度 | 北緯33°46′11″ | 経度 | 東経129°44′4″ |
標高 | 16m | 地形 | 丘陵 |
種別 | 城館跡・遺物包含地 | 時代 | 弥生、古墳、中世 |
資料所在地 | 原の辻遺跡調査事務所 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 『日本城郭体系』第17巻 1980、『都城跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書代3集 1997 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
覩城跡は、「深江田原」と呼ばれる平野の北西一角にある低い丘陵に立地する城館跡である。築造年代は明確でないが、平治年中(1159)から寿永年間(1182~1185)には長田壱岐守平忠政とその子忠致が居城していたといわれる。その後、正平24年(1369)には志佐氏の居城となり、代官の真弓氏が治めていたが、文明4年(1472)に肥前唐津岸嶽城主の波多泰が壱岐に侵攻し、覩城も落城したといわれる。平成8・9年度(1996・97)と平成17年度(2005)に調査が実施されている。平成8・9年度には、堀・溝・建物跡・土坑などが検出され、14~15世紀を主体とする陶磁器などが出土し、なかでもベトナム・タイの東南アジア産の陶磁器は志佐氏の中継貿易の実態を表す貴重な資料である。平成17年度の調査では、堀・柱穴などが検出され、模鋳銭の可能性をもつ大型銭の未製品が出土している。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||
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旧石器時代後期~終末期 カラカミ遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる 縄文時代前期~晩期 名切遺跡〔郷ノ浦町〕にドングリを貯蔵する穴が造られる
弥生時代中期前葉 原の辻遺跡のある丘陵部のまわりに環濠が掘られ、船着き場が完成する 弥生時代後期 カラカミ遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる 千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」の57文字で一支国の様子が記載されている 古墳時代前期 4世紀中頃、原の辻遺跡にあった環濠集落が解体される 古墳時代中期 5世紀後半頃、大塚山古墳〔芦辺町〕に竪穴系横口式石室の小型円墳が築造される 古墳時代後期 6世紀後半頃、松尾古墳〔郷ノ浦町〕に円墳が築造される 487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祀り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祀る【神社考】 632年 犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等の名有り 700年 伊吉博徳が大宝律令の編纂に参与し、功績が認められ賜禄される【続日本紀】
![]() 759(天平宝字3)年 大宰府や壱岐などに軍船100を置く事を上申するものの実現せず【続日本紀】 804(延暦23)年 壱岐島の防人に筑前の穀米を送る【日本後紀】 804(延暦23)年 壱岐島に配した大宰府管内6国の防人20人を廃止する 壱岐島の兵士300人を分番配置する【日本後紀】 782~806年〔延暦年間〕 桓武天皇の命により兵主神社〔芦辺町〕を建立する【壱岐国神名記】 806(大同1)年 壱岐が水害と疫病に見舞われたため、1年間、税を免除される【類聚国史】 815(弘仁6)年 壱岐島医師に大初位下蕨野勝真吉の名有り【続日本後紀】 816(弘仁7)年 異賊襲来に備え、壱岐島内の2か所の関を置き、14ヵ所の要害を構える【日本後紀】 828(天長5)年 壱岐直方磨を壱岐国造に任命する 835(承和2)年 新羅人の来航に備え、壱岐島内を防人330人に守らせる【続日本後紀】 837(承和4)年 第17回の遣唐使船が逆風に遭い遭難する 第1船と第4船は壱岐に、第2船は値嘉島に漂着する【続日本後紀】 838(承和5)年 新羅商人の往来に備え、壱岐島に弩師を置く 壱岐島内には弩100脚有り【類聚三代格】 844(承和11)年 諸国の例に準じ薩摩・大隅・壱岐諸国に講師を置く【続日本後紀】 845(承和12)年 日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬諸国の博士・医師の任期を6年とし、内位に叙する【続日本後紀】 851(仁寿元)年 この頃、壱岐の人口10,600人、対馬7,400人と記されている【類聚三代格】 856(斉衡3)年 ト部雄貞が「ト部」を改めて「占部宿禰」を賜う【壱岐神社誌】 859年 海神社〔勝本町〕を従五位にする【日本三大実録】 863(貞観5)年 石田郡の占部是雄と占部業孝に「壱岐宿祢」の姓を授ける【日本三代実録】 866(貞観8)年 伴秋実、応天門の変により壱岐に流罪となる【日本三代実録】 869(貞観11)年 伊岐宿禰是雄を「丹波権椽」に任命する【壱岐神社誌】 870(貞観12)年 壱岐島に武具〔冑・手纒各200〕を送る【日本三代実録】 870(貞観12)年 筑前・肥前・壱岐・対馬などの国に対し、外敵に備えさせる【日本三代実録】 871(貞観13)年 壱岐島に冑などの武具400具備える 872(貞観14)年 従五位下宮主伊伎宿袮是雄が没する〔享年54歳〕【日本三代実録】 876(貞観18)年 壱岐の水田616町有り これは『倭名抄』の620町におおむね一致する【日本三代実録】 880(元慶4)年 伴秋実、恩赦により放免となる【日本三代実録】 883(元慶7)年 朝廷は周防国司に命じて、再び伴秋実を壱岐へ配流する【日本三代実録】 894(寛平6)年 新羅の賊が壱岐を襲い、官舎などを焼き払う 895(寛平7)年 大宰府に新羅の賊が壱岐島に襲来したことを報告する【日本紀略】 906(延喜6)年 豊前国宇佐郡より異国降伏国家擁護の神を白沙八幡に移す 927(延長5)年 『延喜式』神名帳に壱岐島内に24座(大7、小17)有りと記されている 935(承平5)年 壱岐の戸数2,070戸、人口10,350人、と記載有り【倭名類聚抄】 997(長徳3)年 南蛮人〔奄美人〕が、壱岐・対馬を襲う【小右記】 ![]()
1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】 ![]()
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![]() 海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐 ![]()
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1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】 ![]() ![]() 1301(正安3)年 波多宗無の妻華渓女が病死する その後天祐貴公、武生水に母の菩提寺華渓院〔現・華光寺〕を創建する 1400(応永7)年 神岳山金蔵寺〔新城西触〕に「応永七年」銘の銅造鰐口有り ![]() 1501(文亀1)年 中津宮〔北触〕を造営し、遷宮する【壱岐神社誌】
1700(元禄13)年 『壱岐国図』を幕府に提出する【御廻記】 1700(元禄13)年 3月26日に大地震が起き、壱岐・平戸の人家が破損する【松浦家世伝】 1700(元禄13)年 江戸の無宿者100人を壱岐へ流罪とする【松浦家世伝】 1700(元禄13)年 藩主より天手長男神社〔郷ノ浦町〕に高2石・祭米6升5合寄付される【松浦家世伝】 1707(宝永4)年 庸岩が覚音寺〔立石西触〕に大般若経を奉納する〔現在、玉泉寺に有り〕 1707(宝永4)年 烽山金比羅神社〔東触〕に「宝永四年」銘の銅鰐口有り 1710(宝永7)年 河合曽良が勝本浦の中藤家にて病死する 1711(正徳1)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する【松浦家世伝】 1711(正徳1)年 瀬戸浦〔芦辺町〕が焼失する【松浦家世伝】 1712(正徳2)年 朝鮮通信使が勝本に入港する 同月9日勝本を出港し、対馬に入港する【松浦家世伝】 1713(正徳3)年 若宮神社〔北触〕に「正徳三年」銘の猿田彦神楽面有り 1713(正徳3)年 吉野秀政が箱崎八幡社家の吉野秀教の長男として生まれる 1716(享保年中)年 政治村落数(触と浦)111有り【壱岐国続風土記】 1716(享保1)年 平戸山口屋助左衛門が壱岐に来て捕鯨業を経営する 1717(享保2)年 箱崎恵比寿の丘に鯨供養塔を建立する 1719(享保4)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 8月1日勝本を出港し、藍島に入港する【申維翰海遊録】 1719(享保4)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月20日夜中に勝本を出港し、翌日対馬に入港する【申維翰海遊録】 1719(享保4)年 爾自神社〔郷ノ浦町〕において朝鮮通信使のための順風祈願をする 1720(享保5)年 壱岐の飼育馬417頭〔駒65頭・駄馬352頭〕【郡鑑】 1721(享保6)年 壱岐国の人口39,376人、田1,030町、畑1,776町、牛8,666、鬼屋〔古墳〕194、酒屋34と記されている 1722(享保7)年 松浦篤信が聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神岳山本宮寺に寺領20石、神皇密寺に10石、観世音寺に5石1斗、覚音寺に5石寄付する 1722(享保7)年 藩主の命により国分寺〔芦辺町〕は本山となり、その開墾する田20石を賜い、今までの10石と合わせて30石となる また別に開墾する田10石を阿弥陀寺に賜う【年寄方日記寺社役記】 1722(享保7)年 大久保佐渡守が松浦氏に命じ壱岐の石窟〔古墳〕を調査させる 鴨井助五平と尾野尚意に島内を巡見させ、絵図を作らせる【松浦家世伝】 1723(享保8)年 長谷川元喜が湯ノ本に新田を開拓する【新田方記録】 1723(享保8)年 許斐氏〔加々右衛門〕が潟長江新田〔立石西触〕の開発に着手する【壱岐刈田院観音寺旧記】 1727(享保12)年 徳川吉宗が「甘藷栽培」を奨励する すでに壱岐では琉球イモ栽培が行われている 1727(享保12)年 勝本の土肥甚右衛門が郷ノ浦の許斐小左衛門、瀬戸の布屋九郎右衛門、芦辺の篠崎与右衛門の4人、共同して捕鯨を行う 1728(享保13)年 壱州鯨組方目付を配置する 1730(享保15)年 芦辺浦が火災に見舞われ、人家が焼失する【松浦家世伝】 1731(享保16)年 生月の益富又右ヱ門、江戸の油屋又右ヱ門ら5人が集まり、壱岐での捕鯨活動を行う 1731(享保16)年 瀬戸漁民が鰤網を考案する 勝本漁民が鮪網を考案する 1731(享保16)年 潟長江新田〔立石西触〕の開発が完了する【壱岐刈田院観音寺旧記】 1735(享保20)年 『壱岐巡り』が完成する 著者は橘三喜と伝える【壱陽伝記】 1716~1736(享保年中)年 藩では行政の必要上村の地図を作り、行政区画を設定する 名称を「触」とする 1738(元文3)年 住吉神社〔芦辺町〕が落雷を受け、御殿・拝殿・御饌舎が炎上する【壱岐国続風土記】 1739(元文4)年 前年、落雷で焼失した住吉神社の社殿を造営する 1739(元文4)年 小山弥兵衛が生野一揆の罪により壱岐へ配流される 1739(元文4)年 夷浦〔瀬戸浦恵比須〕、田ノ浦〔仲触〕の両捕鯨根拠地〔納屋場〕を益富又右ヱ門、土肥市兵衛の両家で経営とする【吉野文書】 1741(寛保1)年 深江村〔芦辺町〕の畑の畔より、古銭5貫文余が入った壺一口が掘り出される 寛保2 吉野秀政、亀岡城に招致され、藩主より『壱岐国続風土記』撰述の命を受ける(壱岐郷土史) 1742(寛保2)年 瀬戸浦と勝本浦の鯨組が、天手長男神社へ黒皮大神楽を奉納する【壱岐神社誌】 1744(延享1)年 吉野秀政が『壱岐国続風土記』の編纂を完了し、藩主松浦誠信に提出する 1748(寛延1)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 4月1日勝本を出港する【松浦家世伝】 1748(寛延1)年 朝鮮通信使が勝本に入港する 同月18日勝本を出港し、対馬に入港する【松浦家世伝】 1748(寛延1)年 朝鮮通信使来朝のため、爾自神社において順風祈願の大神楽を奉献する 1749(寛延2)年 松浦誠信が、聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神岳山本宮寺に寺領20石、神皇密寺に10石に5石1斗、覚音寺に5石寄付する 1753(宝暦3)年 国分当田新田の埋築工事が一部完成する〔起工者土肥八右衛門、土肥甚右衛門〕「土肥新田」と名づける【吉野文書】 1761(宝暦11)年 湯ノ浦が出火し、人家残らず焼失する【御廻記】 1762(宝暦12)年 土肥市兵衛が夷浦〔瀬戸浦恵比須〕を埋築して、捕鯨業根拠地を拡張する 1763(宝暦13)年 爾自神社〔郷ノ浦町〕において朝鮮通信使来朝のための順風祈願を行う 1763(宝暦13)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 12月3日勝本を出港し、藍島に入港する【松浦家世伝】 1763(宝暦13)年 朝鮮通信使が逆風により壱岐に滞留する 爾自神社において順風祈願の大神楽を奉する 1764(明和1)年 郷ノ浦が火災に見舞われる【松浦家世伝】 1764(明和1)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 6月13日勝本を出港し対馬に入港する【松浦家世伝】 1764(明和1)年 朝鮮通信使の帰国のため、爾自神社において順風祈願を行う 1767(明和4)年 朝鮮に漂流した壱岐芦辺浦の3人が、対馬⇒長崎を経て、長崎奉行より引渡される【松浦家世伝】 1767(明和4)年 土肥市兵衛が勝本の本浦を開拓して邸宅〔御茶屋屋敷〕を構える 3年の歳月を費やしたと伝える【吉野文書】※現在は御茶屋屋敷石塀のみが残る 1773(安永2)年 土肥甚平治〔甚兵衛〕が、国分当田の新田開拓の許可を受ける【吉野文書】 1777(安永6)年 勝本の土肥甚平治が国分当田新田を開拓し、50町余り新たに増える【吉野文書】 1780(安永9)年 松浦清〔静山〕が亀丘城にて諸士を閲見する【松浦家世伝】 1780(安永9)年 松浦清が勝本の土肥八右衛門の別棟に泊る【松浦家文書】 1786(天明6)年 壱岐の人口が24,771人と記される 1792(寛政4)年 江戸諸役所が規格を定め、土肥・益富両家に御用金一万両の上納を命ぜられる【御廻記】 1792(寛政4)年 郷ノ浦のある今西商店〔藤四郎〕にこの頃の客面附牒〔同家に出入した島外の商人の名前控帳〕有り 1798(寛政10)年 国中の神社として、本社42座・末社794座、計836座の記録有り【壱岐国続風土記】 1798(寛政10)年 壱岐の飼育馬が35頭と記されている【壱岐国続風土記】 1803(享和3)年 地割りに抗議して源蔵〔源三〕事件起こる 1803(享和3)年 源蔵〔源三〕が起こした事件のことが記される〔百姓源蔵事件〕【太宰府天満宮御講主善作】 1807(文化4)年 琉球の住民が印通寺浦に漂着する 平戸を経て長崎に送り帰国させる 1808(文化5)年 勝本土肥市兵衛が金800両を藩主に献上する 1809(文化6)年 松浦熙が壱岐に大銃を設置する 1810(文化7)年 刀鍛冶脇山形七〔刀工名:正行〕の勝本居住が許可される【城代日記】 1810(文化7)年 勝本押役所と若宮島遠見番に足軽配置 中尾丹弥の指揮のもと、稽古場において軍事訓練を行う【郡方日記】 1810(文化7)年 松浦熙が儲米300石を壱岐に置いて非常時に備える 1811(文化8)年 聖母神社に「文化八年」銘の刀有り〔脇山正行作〕 1813(文化10)年 伊能忠敬が平戸・壱岐・対馬・五島などを実測する 1814(文化11)年 源蔵〔源三〕と作五郎が遠流となる【太宰府天満宮御講主善作】 1820(文政3)年 益富又右衛門が勝本にて捕鯨を行う 1820(文政3)年 源蔵(源三)が百間馬場において処刑される〔享年43歳〕 1820(文政3)年 源蔵〔源三〕を壱岐に送致する 1825(文政8)年 印通寺浦の天満屋與右衛門の船が小呂島にて難航する 1826(文政9)年 勝本の名烏島に朝鮮の船板が漂着する【熊野神社記】 1830(天保1)年 印通寺浦の百崎常蔵の住神丸が瀬戸浦口にて破船する 1838(天保9)年 勝本をめざす平戸大島の船が渡良にて難船する 1839(天保10)年 覚瑜が流罪者の娘と結婚し渡良村に居住する【福田家文書】 1840(天保11)年 勝本原田元右衛門〔二代目〕の捕鯨活動が許可される【原田家文書】 1843(天保14)年 勝本原田元右衛門が捕鯨業を営む 1845(弘化2)年 亀丘城を再築する【壱岐国御順見之記】 1849(嘉永2)年 異船船の通報を受け出兵する 平戸本藩より手当ての人数派遣する 1849(嘉永2)年 異国船を勝本沖で発見する 土肥甚右衛門が急報する 1850(嘉永3)年 壱岐近海に異国船5艘あらわれる 1854(安政1 嘉永7)年 本宮八幡宮〔本宮西触〕に「嘉永七年」銘の武者絵馬有り 1855(安政2)年 壱岐に社倉を設置する【松浦家世伝】 1855(安政2)年 平戸親衛士隊長の葉山高行が玉主売の建碑を建立する 1855(安政2)年 勝本浦沖に異国船渡があらわれる 1856(安政3)年 異国船打払令が出る 1856(安政3)年 壱岐近海に異国船があらわれる 1857(安政4)年 幕府の蒸気軍艦観光丸〔旧スームビング号〕が壱岐沖を航行する 1857(安政4)年 聖母神社に山内利兵衛作の「安政四年」銘の神使石像〔石牛〕有り 1858(安政5)年 可須村の軍用米50俵〔20石〕を立石村に預ける【郡方日記】 1859(安政6)年 郷ノ浦町元居の漁船が五島沖で強風により遭難し、53人死亡 ※『春一番』の語源となる 1861(文久1)年 佐賀藩の軍艦が勝本に入港する 1861(文久1)年 壱岐に軍用米1000俵を備える【松浦家文書】 1861(文久1)年 壱岐城代が岳の辻遠見番に大砲を設置する 1861(文久1)年 後藤正恒と吉野靹千代が『壱岐名勝図誌』を編纂し、藩主に提出する 1861(文久1)年 異国船が勝本浦に入港し、測量する【王政復古録】 1864(元治1)年 鯨組の原田氏が藩主より「永取」姓を賜う【苗字目録】 1865(慶応1)年 深江田原の津合橋を石橋に架け替える 1867(慶応3)年 水神社〔布気触〕に「慶応三年」銘の狛犬一対有り 1868(明治元)年 壱岐島は壱岐郡と石田郡の2郡が有り 〔壱岐郡は13村、石田郡は11村〕 1869(明治2)年 庄屋を「里長」、浜使を「港幹」、勝本押役所を「按撫使」、遠見番頭を「烽火司」と改称する 1869(明治2)年 平戸藩主松浦詮が版籍奉還する〔壱岐の平戸藩の壱岐領有終わる〕 1870(明治3)年 壱岐城代を「督撫使」と改称し、葉山高尚を任命する〔同年12月廃官となる〕 1870(明治3)年 喜応寺跡に壱岐郷学創設〔当時の生徒数約80名〕 1871(明治4)年 平戸藩知事に就任した松浦詮藩知事が壱岐島を巡視する 1871(明治4)年 住吉神社が国幣中社に列せらる 1871(明治4)年 廃藩置県により5藩〔長崎、平戸、島原、福江、大村〕が合併して、長崎県となる 1871(明治4)年 住吉神社境内の神池から神鏡一七面が見つかる 1872(明治5)年 壱岐郡を3大区に区分し、全島を22小区〔村〕とする 1872(明治5)年 郷ノ浦郵便所を設置する〔所長 長田惣兵衛〕 1872(明治5)年 石田、筒城、池田3村戸籍を編成する〔原戸籍の原型となる〕 1872(明治5)年 3大区にそれぞれ「区長」を置き、実務は「里正」が取り仕切る 村には「小頭」を置く 1873(明治6)年 犬狩騒動が起きる 3月18日に郷ノ浦、19日に湯之本、20日に印通寺を襲う 1873(明治6)年 3大区を廃止して、壱岐全島を第30大区の1区とする 区役所は武生水に置く 1874(明治7)年 各自で地割りが行われ土地は個人の所有となる 1847(明治7)年 諸吉小学校・武生水小学校・渡良小学校(大平寺)・可須小学校・箱崎小学校を設置する 1875(明治8)年 志原小学校〔円光寺〕を設置する 1875(明治8)年 勝本郵便局を設置する〔香椎と鯨伏所轄、局長小金丸仙三郎〕 1875(明治8)年 初山小学校、渡良小学校大島分校、立石小学校〔観世音寺、鯨伏小学校の前身〕を設置する 1875(明治8)年 石田小学校を設置する 1875(明治8)年 武生水小学校を「盈科小学校」と改称する 1875(明治8)年 可須小学校を「霞翠小学校」と改称する 1875(明治8)年 長峰小学校〔玉泉寺、沼津小学校の前身〕と半城小学校〔祥雲寺、柳田小学校の前身〕を設置する 1875(明治8)年 霞翠小学校の分舎として勝本小学校を設置する〔仮教室を聖母神社、金比羅神社、おかりど、川尻大神宮等に置く〕 1876(明治9)年 黒崎小学校〔高源院〕を設置する 1876(明治9)年 諸吉小学校芦辺分校及び諸吉小学校八幡分校を設置する 1876(明治9)年 本宮小学校〔報恩寺、のちに立石小学校の分校となる〕を設置する 1876(明治9)年 石田小学校筒城分教場を設置する 1876(明治9)年 箱崎小学校瀬戸分校を設置する 1878(明治11)年 壱岐郡・石田郡の2郡を置く 郡役所を武生水に設置する 1878(明治11)年 各村に戸長役所を設置する〔23ヶ所〕 1878(明治11)年 長崎県議会議員の定数が決定する 壱岐郡・石田郡で定員3名 1878(明治11)年 箱崎小学校新城分校を設置する〔同年10月に新城校として独立する〕 1879(明治12)年 半城小学校を「柳田小学校」と改称する 1879(明治12)年 第1回県会議員選挙が行われる〔立石傅平(武生水村)、江田庄四郎(石田村)、斎藤兵弥(本宮村)が選出〕 1880(明治13)年 印通寺郵便局を設置する〔局長 垣田精一〕 1880(明治13)年 芦辺郵便局を設置する〔局長 篠崎藤吉郎〕 1880(明治13)年 戸長役所の区域を10区〔武生水・志原・長峰・渡良・立石・箱崎・国分・可須・諸吉・石田村〕とする ![]() |
直線基線は領海の範囲を測定する場合だけではなく、それに続く12海里の接続水域、排他的経済水域や大陸棚の幅を測定する際の基点となる重要な線でこの基線を採用することにより領海は基線から外側へ12海里まで広がり、基線の内側の内水を併せこれら全ての水域に我が国の主権が及ぶこととなりました。
ちなみに、この直線基線は全国で162本が定められています。
![]() 本殿 | |
宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門69-2 | |
![]() 東経131度19分51.4秒座標: ![]() | |
大山祇神、禎嘉王ほか | |
郷社 | |
伝・養老2年(718年) | |
七間社流造 | |
秋季例祭(10月17日) 師走祭り(旧暦12月) | |
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