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七年戦争

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七年戦争

   
七年戦争 交戦勢力 指導者・指揮官
Abend der Schlacht bei Leuthen.jpg
ロイテンの戦いの夜のフリードリヒ大王
戦争七年戦争
年月日1756年 - 1763年
場所ヨーロッパアフリカインド北アメリカフィリピン
結果:イギリスとスペインがフランス領北米植民地を獲得
プロイセンのシレジア領有が固定化
プロイセン王国の旗プロイセン王国
グレートブリテン王国の旗グレートブリテン王国および植民地
ハノーファー州ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯
 ポルトガル王国
Wappen Braunschweig.svgブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
Flag of Hesse.svgヘッセン=カッセル
 イロコイ連邦
Royal Standard of the King of France.svgフランス王国および植民地
オーストリア帝国の旗オーストリア大公国
ロシア帝国の旗ロシア帝国
スウェーデンの旗スウェーデン
Flag of Cross of Burgundy.svgスペイン帝国および植民地
Flag of Electoral Saxony.svgザクセン選帝侯国
Flag of Ducal Prussia.svgフリードリヒ2世
Flag of Ducal Prussia.svgフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ
Union flag 1606 (Kings Colors).svgジョン・マナーズ
Union flag 1606 (Kings Colors).svgエドワード・ボスコーエン
Union flag 1606 (Kings Colors).svgロバート・クライブ
Union flag 1606 (Kings Colors).svgジェームズ・ウルフ
Union flag 1606 (Kings Colors).svgジェフリー・アマースト
Union flag 1606 (Kings Colors).svgエドワード・ブラドック
ハノーファー州ブラウンシュヴァイク公フェルディナント
ポルトガルジョゼ1世
Pavillon royal de France.svgルイ15世
Pavillon royal de France.svgルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム
Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svgレオポルト・フォン・ダウン
Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svgフランツ・モーリッツ・フォン・ラシー
Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svgカール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン
Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svgエルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン
Flag of Russia.svgエリザヴェータ
Flag of Russia.svgピョートル・サルトゥイコフ
Flag of Electoral Saxony.svgアウグスト3世
七年戦争(しちねんせんそう、: Seven Years' War: Siebenjähriger Krieg1756年-1763年)は、プロイセン及びそれを支援するグレートブリテン王国イギリス)と、オーストリアハプスブルク君主国)・ロシアフランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である。


概要

 七年戦争は、ヨーロッパにおいては、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデンスペイン1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われた。並行して、イギリスとフランスの間では北アメリカインド、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。
 プロイセンとオーストリアとの戦争を第三次シュレージエン戦争[1]、北米での戦争をフレンチ・インディアン戦争インドでの戦争を第三次カーナティック戦争とも呼ぶ。これらの戦争を総称して七年戦争と呼ぶこともある。

 オーストリアがフランスと同盟を結んだ外交革命、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など[1]、当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した。

原因

オーストリア継承戦争の結果、ハプスブルク領であったシュレージエンはプロイセンへ帰属した。シュレージエンの奪回を意図したオーストリアのマリア・テレジアは、フランスとの長年の対立関係を解消(外交革命)してフランス、ロシアと結び、プロイセンへの復讐戦を画策した。
折から、1755年9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まり、フランスとイギリスとの対立はヨーロッパのハノーファーにも飛び火した。この機に乗じてオーストリアが対プロイセンの開戦に踏み切ることが確実な情勢となり、オーストリアの開戦意図を察知したフリードリヒ大王は、予防戦争として先制攻撃に打って出た。


戦後処理

 講和条約により、プロイセンのシレジア(シュレージエン)領有が確実なものとなった。プロイセンは強国となったが、以後フリードリヒ大王が戦争に与することは無くなった。

 また、北米、西インド諸島、インドにおけるヨーロッパ各国の植民地の帰属が再編され、フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失った。代わって北米とインドでの植民地獲得競争におけるイギリスの優位が決定的になった。しかし、イギリスは多額の負債にあえぐことになり、植民地への課税に訴えるが、これが仇となりアメリカ独立戦争を引き起こすことになる。

 ロシアでは戦後処理を主導したピョートル3世への批判が高じてクーデターロシア語版が勃発し、エカチェリーナ2世が実権を握ることになった。
 オーストリアは悲願であったシュレージエン奪回を実現できなかったが、フリードリヒ大王が皇帝選挙でヨーゼフ2世に投票することに同意したため面子が保った形となった。

 スウェーデンもあまり得ることはなかったが、この戦争でジャガイモがスウェーデンで普及した。そのため、スウェーデンでは七年戦争が「じゃがいも戦争」とも呼ばれている。

アメリカ独立戦争

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アメリカ独立戦争   

アメリカ合衆国独立戦争 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
Rev collage.png
左上から時計周りに: バンカーヒルの戦いケベックの戦いにおけるリチャード・モントゴメリー将軍の死、カウペンスの戦いサン・ビセンテ岬の月光の海戦
戦争:アメリカ合衆国独立戦争
年月日:1775年-1783年
場所北アメリカ東部(今日の アメリカ合衆国カナダ)、大西洋地中海カリブ海
結果パリ条約; アメリカ合衆国の独立(イギリスの敗北)
US flag 13 stars – Betsy Ross.svgアメリカ合衆国(1776年7月4日以前は13植民地)
グレートブリテン王国の旗グレートブリテン王国
アメリカ合衆国の旗ジョージ・ワシントン
グレートブリテン王国の旗ジョージ3世
アメリカ軍 250,000名
フランス軍 15,000名
スペイン軍 8,000名
総計: 273,000名
イギリス軍 12,000名
ロイヤリスト 50,000名
ドイツ人傭兵 40,000名
インディアン 5,000名
総計: 107,000名
戦死または戦病死 25,000名
負傷 25,000名
戦死または戦病死 24,000名
負傷 20,000名
アメリカ独立戦争
 アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、: American War of Independence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命: American Revolution)もしくは革命戦争: Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている[1]。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば[2]、単に「独立戦争」と表記することもある[3]

 この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。
 翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。

 アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年フランス海軍チェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立


ヨーロッパへの影響

  勝利を喜んだのはアメリカだけではなくフランス王国もそうだった。熱烈な青年貴族ラファイエットが参戦したブルボン朝においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、フランス革命をおこす要因となった。

イギリス東インド会社

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イギリス東インド会社

   
企業形態 業種 行方 設立 解散 本部
イギリス東インド会社
East India Company (EIC)
合本会社
国際貿易
解散
1600年
1874年6月1日
イングランドの旗イングランドロンドン

  イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、: East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリス勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。

  当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。インド大反乱の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1870年代に解散した。


概説

  厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。
 初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島バンテンインドスラトに拠点を置き、マレー半島パタニ王国タイアユタヤ、日本の平戸台湾安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。

 インドにおける会社の大拠点はベンガルカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年プラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。
 ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。

歴史

特権会社のはじまり

チェンナイのセント・ジョージ要塞

  1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった[1]
 また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海モスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、1595年オランダジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。

 レヴァント会社はオランダが直接、アジアから東方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの独占が打破されることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術、資本の蓄積では非常にリスクが高いものであった。そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で東インド会社が設立されることとなった。

 貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、東インド会社は自前の従業員を持つジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立された。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373ポンドの資金を集めた[2]この航海は成功に終わった[2]

 その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本平戸に商館を設置した。

 1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした[3]
 しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された[3]
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。オランダ本国の意向を無視し、イギリス人を虐殺した。

 とはいえ、1623年アンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイランサファヴィー朝)へ移っていった。今日では、アンボイナ事件における歴史的意義が見直されており、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説は否定されている[3]。あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンen:Jan Pieterszoon Coen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならない[3]

 1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された[4]

 当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに、出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却する方式であった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。1657年オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった[5]
ジョサイア・チャイルド

 1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済は空前の好況が訪れた。1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。背景には、イギリス国内における「キャラコ熱」と呼ばれるほどの綿製品に対する需要があった。東インド会社の株式は投機の対象となり、インサイダー取引も横行する状況でもあった。
 その中で登場したのが、ジョサイア・チャイルドen:Josiah Child)である。東インド会社総裁に就任したチャイルドはインサイダー取引を駆使し、巨万の富を得たとされる。チャイルドは王室とも癒着関係を持っていた。しかし、名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命令により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合同された[6]

マドラス以後の商館建設

ムンバイに建設された沈黙の塔

 インド南東部・コロマンデル海岸にマドラスという拠点を獲得したイギリスであるが、それ以外の地域でも商館の建設に随時成功していった。1661年には、チャールズ2世ポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザが結婚した。この時の持参金の一部がボンベイである[7]。インド北西部での活動拠点をスーラトからボンベイへ移した際に、パールシーの商人や職人が移住した。ボンベイでゾロアスター教徒が活躍したことは、沈黙の塔en:Towers of Silence)が建設されたことでも分かる。ボンベイの人口は、1671年には10万人に到達した。

 ボンベイについで獲得した主要な拠点がカルカッタである。1702年に、ウィリアム砦の建設を開始していたが、1717年、イギリス東インド会社は、ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルから、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得した。ベンガル地方は、当時のイギリスが求めていた産物の集散地であった。このことから、イギリス東インド会社の輸出の重心はカルカッタへと移動する。1750年には、イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになった[8]

 とはいえ、17世紀のイギリス東インド会社の進出はあくまで、インドで産出される物産を独占することが目的となっていたため、必ずしも領土的野心を持って進出したわけではないことは明確にしておかなければならない。また、フランス東インド会社1664年に、コルベールの肝いりで設立されるとインドにおける貿易は、イギリス、フランス、オランダ、さらには、デンマークスウェーデンといった北欧諸国との競争が激化することとなった。

日英関係

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日英関係   

日英関係
United KingdomとJapanの位置を示した地図
日英関係(にちえいかんけい、英語: Japan-United Kingdom relations)は、日本イギリスの関係のこと。


年表

18世紀以前





19世紀



  • 1825年江戸幕府、異国船打払令発布。イギリス軍艦を警戒し、あらゆる外国船を砲撃・追い返そうとする内容。その一方で、この頃から清朝に輸入されたイギリスの物産が現地の商人によって日本に再輸出されたケースも確認されている。







  • 1862年ロンドン覚書が調印され、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とすることが認められた。



  • 1864年下関戦争攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠。帰国した井上と伊藤は開戦を止められず、事態収拾に奔走。





  • 1879年音吉(1867年没)の息子、横浜で日本国籍を取得。

  • 1886年ノルマントン号事件。イギリス籍のノルマントン号が沈没した際、イギリス人船長や船員が白人客だけとともに救命ボートで脱出し、日本人乗客25人が全員死亡。船員はイギリスの領事裁判により全員無罪、後に再審で船長のみが軽罪。日本側が憤激し、不平等条約の改正要求が強まる。





20世紀前半












  • 1926年蒋介石国民革命軍率いて行った北伐に対しては、外相幣原喜重郎は内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。英国の日本への不信の端緒となる。







日本海軍のインド洋制圧

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日本海軍のインド洋制圧

  日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島蘭印アメリカフィリピンなど)を制圧し、続いてアメリカ本土への空襲オーストラリアへの空襲を行ったほか、イギリス植民地ビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。

 この頃、日本海軍潜水艦はインド洋で完全に制約を受けずに活動でき、3月には日本海軍の機動部隊がイギリス領セイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、イギリスの植民地であるケニアキリンディニまで撤退した。

 この全面的な撤退により、イギリス海軍および連合国軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸攻略への前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。つまり、イギリス海軍は次のような情勢展開を危惧した。ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。
 日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった西インド洋南大西洋はおろか、アフリカ大陸東岸やペルシャ湾まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸と、その末には日本陸軍とドイツ陸軍による二面作戦すら予想される。

 しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねてアメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていたアフリカ大陸中部へその戦線を広げることは戦略上殆ど重要視していなかった。

セイロン沖海戦   

セイロン沖海戦 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
HermesSinking.jpg
沈没する空母ハーミーズ
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1942年4月5日~4月9日
場所インド洋セイロン島
結果:日本の勝利
大日本帝国の旗大日本帝国イギリスの旗イギリス
オーストラリアの旗オーストラリア
オランダの旗オランダ
南雲忠一中将J・サマヴィル中将
空母6
戦艦4
重巡洋艦7
軽巡洋艦3
駆逐艦19
潜水艦5
航空機350
空母3
戦艦5
重巡洋艦2
軽巡洋艦4
駆逐艦15
航空機180
零戦4機
九九式艦爆10機
九七式艦攻2機
空母1
重巡洋艦2
駆逐艦2沈没
航空機50機
南方作戦
ベンガル湾南西に位置するセイロン島

 セイロン沖海戦(セイロンおきかいせん)は、1942年4月5日から4月9日インド洋セイロン島沖で日本海軍空母機動部隊イギリス海軍東洋艦隊の間で行われた海戦連合国軍側の呼称はインド洋空襲(Indian Ocean raid)。


背景

日本

  3月9日、日本軍はジャワ島を攻略し、第一段作戦(南方作戦)の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早く終了、作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まらない状態であった。
 さらに、日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方を撹乱することを期待、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している[1]連合艦隊司令部では2月20日から23日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊の撃滅という計画をたてる[2]。しかしセイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や、米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた[2]

  この状況において、日本軍虎の子の空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である。しかし、作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。

連合国

 イギリスは存亡の危機にあった。1941年12月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」が沈み、極東の最重要拠点だったシンガポールも失陥した。大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。
 しかし、本国艦隊からの増援を受け戦艦5隻空母3隻の大艦隊となっていた。日本軍の最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インドの安全を脅かす存在であった。
 仮にセイロン島が日本軍の手に落ちた場合、インド洋の交通網が遮断され、中東の連合国軍補給ルートの遮断、スエズ運河の陥落、アフリカにおける枢軸国軍の勝利が現実のものとなる可能性が高かった[3]

 連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。イギリスはシンガポールの陥落が避けられなくなったため、新たな拠点の整備にせまられた。セイロン島西岸のコロンボは施設は充実していたが商業港のため混雑しており、東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした[4]

 連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻が何処に対して行われるかを特定するのは重要な問題であった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受け取っていた。
 この問題に対処する為イギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する空母インドミタブル」、戦艦リヴェンジ」・「ロイヤル・サブリン」に対し、空母「フォーミダブル」、戦艦「ラミリーズ」、「レゾリューション」、「ウォースパイト」等の増派をはじめた[5]。サマヴィルは27日に「ウォースパイト」に将旗を掲げた。

 イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。サマヴィルは待避の為30日にコロンボから艦隊を出港させ、アッドゥ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。
 そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処する為、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。3月28日、戦艦「ウォースパイト」、空母「フォーミダブル」、巡洋艦「エンタープライズ」、「コーンウォール」、「ドラゴン」、「キャルドン」、駆逐艦6隻がコロンボを出港、翌日空母「ハーミーズ」、巡洋艦「エメラルド」、駆逐艦2隻が出港し、洋上でR級戦艦6隻と合流した[6]。英艦隊は4月2日まで艦隊の連携を高めるための演習を繰り返した[6]


影響

  日本軍大本営は、作戦全体として空母1隻、甲巡2隻、乙巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶27隻撃沈、乙巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機と華々しい大本営発表を行った[16]。実際の英軍被害は若干小さいものの、コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッドゥ環礁のいずれも危険であると判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためアフリカ東岸モンバサキリンディニ港に向かわせた[17]。さらにインド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。英国艦隊の主力が避退していたため大きな戦果は上げられなかったものの、この攻撃によって英国はインド洋方面における日本海軍への評価を高め、大戦末期に至るまで同方面で積極的な行動に出られなかった。戦略的な効果という面からこの海戦のもたらした意義は大きい。

  本作戦は第一段作戦、南方作戦に付随した最後の作戦にあたる。以後、日本海軍は第二段作戦に短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、小規模な潜水艦隊で仏領マダガスカル島ヴィシー・フランス軍イギリス軍の間で行われたマダガスカルの戦いに参戦した。甲標的が戦艦「ラミリーズ」を雷撃して大破する戦果をあげるなど、イギリス連邦の通商遮断作戦を行った。

  その一方、東洋艦隊主力の撃滅に失敗したため、連合国軍全体に与えた影響は限定されていた[17]ラッセル・グレンフェル英軍海軍大佐によれば『それ故、敵がコンウォール(引用者注:コーンウォール)、ドーセットシャー、そして、ヘルメス(引用者注:ハーミーズ[18])を捕捉し得た小さな成功により、遂に東洋艦隊の主力を発見し、壊滅に至らしめるだけの勢力集中が出来なかったことは、到底償いのつかぬ大失敗であった。』と評価している[19]。グレンフェルは、東洋艦隊が二度目の壊滅を喫した場合にはウィンストン・チャーチルの政治家生命がその時点で終わり、イギリスは戦争から脱落、日本は大東亜共栄圏の確立に成功して第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性を指摘した[20]

  ドイツとイタリアでは、この作戦以降有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えている[21]。野村は『北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む』と報告した[21]。イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も、『更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス』として、日本海軍が英国東洋艦隊を撃滅することを希望した[21]。同盟国の要請に対し、日本海軍は6月下旬に「海上交通破壊戦(B・作戦)」の実施を南西方面艦隊に下令、7月31日には大川内傳七海軍中将・第一南遣艦隊司令長官を指揮官とし、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第十六戦隊、第三水雷戦隊がマレー半島のメルギーに進出した[22]。連合艦隊司令部は、水上部隊が輸送船20隻、潜水艦部隊が50隻を撃沈すると予想[22]。しかし8月になるとガダルカナル島に米軍が襲来、ガダルカナル島の戦いによってソロモン・ニューギニア方面が不安定となると、インド洋方面に投入される戦力は激減した[23]。ドイツとイタリアは日本が作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃で米国を戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことなら米国に対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難された[23]。このため、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている[23]

  その反面、日本の戦争遂行にとって最大かつ唯一致命的となりうる脅威であるアメリカ太平洋艦隊の撃滅という最重要戦略目標とは何の関連もない本作戦に日本の主戦力である南雲機動部隊を投入したことは、アメリカに体制立て直しの時間を与え、来るべき決戦を前に機動部隊を消耗させただけという評価も成り立つ。例えば、淵田美津雄は当時よりインド洋での作戦自体に不満を抱いていた。淵田の持論は戦力の回復していない太平洋艦隊主力を早期に撃滅することであり、そのために再び真珠湾攻撃のような積極攻勢を早期に実施することを望んでいた[24]。一つ作戦をこなす度に神業を持つ熟練搭乗員が少しずつ失われ、見慣れぬ新人が配乗されてくる状況をつくった上層部に対し苦々しく思っていたという。

ミッドウェー海戦の前触れ

しかし、後の目から見て、この海戦で機動部隊の弱点を感じさせる場面があり巷間指摘される。暗号が解読され英国東洋艦隊がセイロン島海域で待ち伏せていたこと、偵察が不徹底で東洋艦隊を発見できなかった事、上記のトリンコマリー・イギリス艦隊攻撃の際に兵装転換を行い迅速な攻撃を行わなかったこと、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず空母「赤城」が攻撃換装中にウェリントン爆撃機9機に空襲されたことである。「週報第288号」では『わが方の電撃戦の前にイギリスインド洋方面の主力艦隊は杳として姿を現はさず』『イギリスが宣伝していた戦艦、航空母艦数隻を主力とする、いはゆる「大英インド艦隊」は、果たして今いづこに健在するのであろうか』と揶揄しているが、実際には英東洋艦隊は南雲機動部隊のごく近距離で行動していた[25]。日本海軍はこれらの教訓を生かせず、後にミッドウェー海戦でも同じミスを繰り返し、大敗北を喫する事になる。
ウェリントン爆撃機の接近に気付くのが遅れ、回避運動などもろくにとれなかったことは日本軍に衝撃を与え、現在の見張り設備では高高度の敵機を発見するのは極めて困難であり、対策として対空見張り用の電波指信器や空中聴音機の設置が必要といった戦訓が出されることになる[26]

  セイロン沖海戦では他に敵機発見の報告の迅速化が必要などといった複数の戦訓が出された[27]

アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊は敗れ、イギリスが勝ち、

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アルマダの海戦   

アルマダの海戦 衝突した勢力 指揮官 戦力 被害者数
英西戦争
Loutherbourg-Spanish Armada.jpg
アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』(Defeat of the Spanish Armadaフィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ (en画、1797年
時 場所 結果
1588年7月31日-8月8日(旧暦7月21日-7月29日)
英仏海峡プリマス沖ポートランド沖ワイト島沖グラヴリンヌ沖 (en
イングランド、オランダの勝利
イングランドの旗イングランド王国
ネーデルラント連邦共和国の旗ネーデルラント連邦共和国
第2代ハワード男爵
フランシス・ドレーク
メディナ=シドニア公
軍艦34隻[1]
武装商船163隻
(200トン以上30隻)[1]
快速船 (en30隻
軍艦28隻
武装商船102隻
アルマダの海戦:
戦死50–100人[2]
戦傷400人
火船8隻焼失[nb 1]
戦病死:
数千人[3]
アルマダの海戦:
戦死600人以上
戦傷800人[4]
捕虜397人
喪失9~11隻[5][6]
遭難と戦病死:
難破・行方不明54隻[5]
死者20,000人[7]
アルマダの海戦(アルマダのかいせん、英語: Spanish Armadaスペイン語: Grande y Felicísima Armada)は、スペイン無敵艦隊イングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。

  広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ダロ大佐が1884年に著した論文の題名が原典とされている[nb 2]。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている[8]
  本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(Grande y Felicísima Armada)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armadathe Armadaなどと呼ぶ[nb 3]

 なお、両国での暦が異なる(当時イングランドはまだグレゴリオ暦を採用していない)ため、記録上の日付も異なっている。日付はスペイン側のグレゴリオ暦とイングランド側の旧暦(ユリウス暦)を併記する。



概要

  当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、また、イングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因の一つにあげられる。
 
 1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦の後のグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊はスコットランドアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を蒙ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった[9]
  ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした。

背景

スペイン王フェリペ2世は妻のイングランド女王メアリー1世1558年に死去するまでイングランドの共同王であった。敬虔なカトリックである彼は、プロテスタントである義妹エリザベス1世異端者であり、違法なイングランド統治者であると見なしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド王位継承権者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位に就けようとする陰謀を支持していたが、メアリーを幽閉していたエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった[13]
また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペ2世はイングランド女王エリザベス1世海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていた[14]
加えて、プロテスタント信仰の拡大を策するエリザベスがスペインに敵対するオランダ人の反乱を支援して軍事介入し、1585年以降、両国は実質的な戦争状態になっていた。これらの報復のために、フェリペ2世はプロテスタント体制を打倒すべくイングランド侵攻を計画した。そしてこれによって、イングランドによるネーデルラント連邦共和国低地諸国の一部でスペインの統治から離脱しようとしていた)への支援を終わらせ、新世界のスペイン交易路と入植地への攻撃[15]を断つことができる。フェリペ2世は教皇シクストゥス5世からの支持を受けており、教皇は侵攻を十字軍として扱い、スペイン軍が上陸した際の特別補助金を約束している[16]
1583年サンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサンレパントの海戦の英雄)が艦隊計画を発案した[17]。史料が残っている1586年の計画では船舶796隻を動員し、予算総額は15億2642万5898マラベディーに及び[18]、レパント海戦の予算の実に7倍余りとなった。あまりの高額であり、代案として艦隊規模を縮小して、上陸部隊はスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸軍を活用することになった[19]
1587年4月29日から30日(旧暦4月19日~20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37~24隻が破壊または捕獲された[20]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して小型の漁船が主だが100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[21]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、この後の遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[22][nb 4]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain's Beard
スペイン艦隊は波の穏やかな地中海での戦闘が主で、特にレパントの海戦ではガレー船により華々しい戦果を収めており、帆船への移行がなかなか進まなかった。ドレークのカディス港襲撃の際に新型帆船に対するガレー船の無力さが露呈したこともあり[23]、当初計画のガレー船40隻を4隻へと大幅に減らし[24]、また機動性と攻撃性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置した帆船とガレー船の混合型ガレアス船を導入するが、波の荒い英仏海峡ではかえって安定性を得ることができず、実戦では成功しなかった[25]
さらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし[26]、数発で敵船の動きを止めて従来の接舷斬り込み戦法に持ち込むための、重量の大きい砲弾を放つ、威力は強いが短射程のカノン砲全カルバリン砲が多用されていた[27][28]。また、接舷切り込み直前の接近戦で人員殺傷を狙うため、ペリエール砲以下の軽砲が搭載砲約2500門の2/3を占めていた[29]。この多数の軽砲を搭載するため、主力戦闘艦であるガレオン船には大規模な船首楼・船尾楼が設置されていたが、トップヘビーで船体を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった[30]。対するイングランド軍の大砲の95%が、軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲であった[28]。短射程軽砲を積まないのに合わせて大きな船首尾楼は廃止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船体となっていた[30]。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても軽量弾では船体に致命傷にはならないため、当初から接近戦を志向したスペイン艦隊の戦術理論の方が先進的との評価もある[29]。スペイン側もこのような両軍の装備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲戦を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻撃するよう艦隊出撃前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優ったこともあり、イングランド側が砲戦で終始主導権を握る展開へとつながった[29]
当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃は延期になった。さらに2月9日、艦隊司令官だったサンタ・クルス侯が急逝する。代わりにフェリペ2世はメディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマンを総司令官に任命した。メディナ=シドニア公は温厚な人物で優れた行政官でもあったが、海戦の経験は皆無だった[31][32][33]。当初、彼は就任を固辞して別人を推薦したが、総司令官には高位の名門出身者がふさわしいと考えたフェリペ2世はこれを認めなかった[34]。代わりに、フェリペ2世は、有能な海軍軍人であるディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデスes)を補佐役として任命した[35]



戦後[編集]

アルマダの海戦時のエリザベス1世の肖像画
イングランドの損害は死者50~100、負傷者400に留まり、沈没した船はなかったが、イングランド艦隊はグラヴリンヌ沖海戦で無敵艦隊の再集結を阻止しえなかったので、なお艦隊に兵を配置し続ける必要があった。このため、艦隊に疫病が発生し、チフス赤痢そして飢餓によって数千人の水夫や兵士が死亡している[3]。政府の資金不足により、彼らは給与を支払われることなく解隊されており、ハワードが戦利品や私財を使って乗組員を救済したが到底足りず[90]、イングランドの守護者たちが無給のまま何カ月も放置されたことで、士気を低下させる論争が引き起こされた。これはスペイン政府が艦隊の生き残りに援助を与えたこととは対照的であった[91]
この海戦の結果は、それまでは衝角突撃や接舷斬り込み戦闘の補助でしかなかった砲手の地位の向上という、海上戦闘上の変革を明示している。グラヴリンヌ沖海戦は一部の軍事史家から、両国の海軍技術や兵装の差などといった海軍バランスのイングランドへの移行を反映していると考えられており[92]、これは次の世紀まで続いた。歴史学者ジェフリー・パーカーは1588年における「エリザベス海軍の主力艦は全世界で最も強力な艦隊を構成していた」と語っている[93]。しかし、アルマダの戦いでの敗北以降、スペイン海軍もまた大規模な組織改革に着手しており、次の世紀においても本国海域や外洋航路の支配を維持し続けた。
イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」(He blew with His winds, and they were scattered)という文言によく現れている。その他にもユリウス・カエサルの言葉「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)をもじった「彼は来た、彼は見た、彼は逃げた」(Venit, Vidit, Fugit)を刻印したより陽気なメダルもある。
しかし、イングランドの優位は翌1589年に実行されたポルトガル及びアゾレス諸島遠征の失敗によって失われてしまった。ノリス=ドレークの遠征またはイングランド無敵艦隊 (English Armadaと呼ばれる遠征は、ポルトガル人との連携に失敗して多大な損害を出して帰還している。
スペインは艦隊を再建し、1596年以降にイングランド攻撃を目指す4回の無敵艦隊を編成した。1596年10月に派遣された2回目の無敵艦隊は100余隻、12,000人の陣容でアイルランドを目指したが、悪天候によって75隻3,000人を喪失して失敗した[94]1597年10月に派遣された112隻からなる第3回無敵艦隊は、敵に気付かれずにイングランド本土に迫ったが、またも嵐に巻き込まれて頓挫している[95]1599年に編成された第4回無敵艦隊は、出港直前に作戦を変更してオランダ艦隊を迎撃すべくアゾレス諸島へ向かった[96]。最後の第5回無敵艦隊は、1601年春にアイルランドの反乱軍を支援すべく派遣され、アイルランドに兵3,000を上陸させることに成功したが、その後の陸戦に敗れて撤退している[97]
外洋での海賊行為やネーデルラントやフランスでのフェリペ2世の敵への増援は続けられたが、イングランドにはごくわずかの実質的な見返りしかもたらさなかった[98]英西戦争は膠着状態に陥り、フェリペ2世とエリザベス1世の没後の1604年にスペイン側に有利な内容のロンドン条約 (enが締結されて終結した。
その後もしばらく、スペインは欧州およびアメリカ大陸での覇権国家であり続けており、イギリスがこれに代わる強力な海軍を擁する海洋覇権国家になるにはなお長い歳月が必要であった[10][11][12]

壱岐の歴史

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壱岐の歴史

対馬とともに、古くから朝鮮半島九州を結ぶ海上交通の中継点となっている。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(ヘドンチェグッキ)[5]にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。

原始・古代

縄文時代

縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である[6]

弥生時代

  中国史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」とあり、1家5人と仮定しても当時すでに15,000人もの人口が存在していたこととなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日時点での壱岐市の推計人口は、28,290人である)。

古墳時代

  河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の岩屋古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。
  鬼の岩屋古墳の近くには島分寺があり、壱岐の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる[6]

律令制

 令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉や雪連は一族であると考えられる[6]
 平安時代1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。

刀伊の入寇   

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てた物とされている[1]15世紀訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では(そのまま「トイ」)として表れる[2]
この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。
朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。

経緯

日本沿岸での海賊行為頻発

9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前肥後薩摩の九州沿岸であった。

侵攻の主体

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た[3]。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。

日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族

  「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。女真族とは、12世紀を、後の17世紀には満洲族として後金を経てを建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[4][5]
 10世紀前後に資料に現れる東丹国熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[6][7]

 13世紀初頭に蒲鮮万奴中国東北部大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。

  しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。
  替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[8]
  また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]

刀伊の入寇までの北東アジア情勢

 926年契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。

 1005年高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる[10]

 しかし、当時の女真族の一部は高麗朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した[11]。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている[12]

対馬への襲撃

 寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃

 賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
 藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。

筑前国怡土郡への襲撃

 その後、刀伊勢は筑前国怡土郡志麻郡早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退された[13]。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが、源知松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した[14]

藤原理忠   

藤原 理忠(ふじわら の まさただ、生年未詳 - 寛仁3年4月7日1019年5月14日))は、平安時代後期の武将。壱岐国国司
寛仁3年(1019年)、得体のしれない賊徒が島の人々を襲い、家畜を食い荒らしていると言う急報を聞いて、直ちに布代城から兵士を率いて賊徒の討伐に向うが、約3000人もの賊徒にはとても敵わず、奮戦するも味方の兵士147人と共に討ち死にした(刀伊の入寇)。長崎県壱岐市勝本町立石南触に、理忠の墓がある。

中世・近世

中世には松浦党の勢力下に置かれた。鎌倉時代中期、モンゴル帝国大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害をこうむった。
続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。

元寇 文永の役 壱岐侵攻

壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する[144]
高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた[145]。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った[145]。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた[145]。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという[145]
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」[146]と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。

平景隆

   
 平 景隆(たいら の かげたか、? - 文永11年10月15日1274年11月14日))は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国守護代。贈正四位。通称は内佐衛門。平経高平景高とも。

 壱岐国の守護少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。
 しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。

 明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、刀伊の入寇弘安の役の戦死者とともに新城神社長崎県壱岐市勝本町)に祀られた。
1896年(明治29年)11月2日には、正四位が追贈された[1]


一支国

   
  一支国(いきこく、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされているが、誤記ではないとする説もいまだ根強い。
1993年長崎県教育委員会壱岐島原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。

概要

魏志倭人伝

  魏志倭人伝において邪馬壹國(邪馬臺國)が支配下に置いていたとされる「一大國」という名の島国である。対海國(対馬国)から南に一千里(当時の度量衡で400Km)の所、ということになるが、仮に対海國を現在の対馬とすれば、これは鹿児島県の南方海上になるため、実際にどこであるかには論争がある。
※当時の中国では「一=400〜500m」という「長里」が使われて来た。 また。『三国史』の魏(・西晋)朝では、「一里=75mないし90mで、75mに近い」長さの「短里」が使用されている。なお日本の近代では一里=4Kmであり、中国の距離とは異なる。
魏志倭人伝には次のように記述される。
  • また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。

海東諸国紀   

海東諸国紀 各種表記ハングル漢字発音日本語読み:
해동제국기
海東諸國紀
ヘドンチェグッキ
かいとうしょこくき
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海東諸国全図

  『海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 韓国語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。
  1443年世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。


内容

  海東諸国全図、西海道九州図、壱岐島図、対馬島図、琉球国図、朝鮮三浦(薺浦、富山浦、塩浦)図などの地図が冒頭に掲げられている。本文は「日本国紀」、「琉球国紀」、「朝聘応接紀」に分かれ、それぞれの歴史、地理、支配者、言語などを詳細に記す。また当時朝鮮を訪れていた日本の地方支配者(大名)使節の接遇方法も詳細に記されている。日本史琉球史の重要資料であるだけでなく、日本語史、琉球語史でも見逃せない資料を提供している。

壱岐国の沿革

 史料上の初見は、中国史書である三国志 (歴史書)のいわゆる魏志倭人伝に「一大國」としてある。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國と記述される。

 古くは壱岐のほか、伊伎伊吉伊岐由紀由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。令制国しての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。

国内の施設

国府

国府は石田郡にあった。壱岐市芦辺町湯岳興触の興神社付近ではないかと推測されるが、他にも場所は諸説あり遺跡もまだ見つかっていない。

島分寺・島分尼寺

壱岐国分寺跡
長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社7座7社・小社17座17社の計24座24社が記載されている。大社7社は以下に示すもので、海神社を除いて名神大社となっている。
総社一宮以下

壱岐の歴史

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串山ミルメ浦遺跡

貝塚・遺物包含地縄文時代~古代壱岐市

天ケ原遺跡

祭祀跡・遺物包含地弥生時代、古墳時代壱岐市
  
遺跡名

 天ケ原遺跡(あまがはらいせき)

所在地 壱岐市勝本町東触字菖蒲坂
緯度 北緯33°51′21″経度 東経129°42′30″
標高 5m地形 砂丘
種別 祭祀跡・遺物包含地時代 弥生時代、古墳時代
資料所在地 壱岐市教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 『串山ミルメ浦遺跡』勝本町文化財調査報告書第4集 1985
遺跡・史跡の概略
 遺跡は、壱岐の最北端に位置し、天ケ原から小串へと伸びる砂州上にあり、北東側は外海に接している。遺跡内の道路工事および護岸工事の際に、朝鮮半島系の無文土器、古墳時代~奈良時代の土師器・須恵器などが出土している。また、昭和36年(1961)には、海岸の波打際にあったセジョウ神と呼ばれていた石祠の地下80cmほど下から、中広銅矛3本が出土している。この遺構は、青銅器の埋納遺構と考えられ、壱岐の最北端に位置することから、異国から招来する悪霊や疫病等対しての境界祭祀の可能性をもっている。壱岐では、銅矛は天ケ原遺跡の3本と原の辻遺跡の2本、熊野神宮に伝世する1本の合計6本が知られるに過ぎないが、対馬では100本を超える数の銅矛が出土しており、航海安全を祈る祭祀にも使われたことが推測されている。
主な遺構
 中広銅矛3本埋納遺構
    
主な遺物
 中広銅矛3本、無文土器、土師器、須恵器
ファイル出土土器 ファイル出土銅矛   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル出土遺物(銅矛) 

松崎遺跡

遺物包含地縄文時代壱岐市

カラカミ遺跡

遺物包含地・貝塚旧石器時代、弥生時代壱岐市
  
遺跡名

 カラカミ遺跡(からかみいせき)

所在地 壱岐市勝本町立石東触字カラカミ、国柳、川久保
緯度 北緯33°47′28″経度 東経129°41′48″
標高 80m地形 丘陵
種別 遺物包含地・貝塚時代 旧石器時代、弥生時代
資料所在地 壱岐市教育委員会指定状況 市指定
参考文献等 『カラカミ遺跡』勝本町文化財調査報告書第3集 1985、同6集 1988
『地域拠点遺跡内容確認発掘調査報告書2』長崎県文化財調査報告書第185集 2005
遺跡・史跡の概略
 遺跡は、壱岐島の中央よりやや西側に位置し、刈田院川上流の標高80mほどの丘陵に立地する。大正8・9(1919・20)年頃に発見され、昭和初期に在地の研究者松本友雄によって中央学会に紹介された。昭和27(1952)年には東亜考古学会、昭和52(1977)年には九州大学、昭和57~59(1982~84)、62(1987)年には勝本町教育委員会が主体となり、発掘調査が実施され、鯨骨や獣骨製、石製の漁労関係遺物、楽浪土器や三韓土器などの大陸から舶載された土器、後漢鏡片などの青銅器、鉄器、占いの卜骨などが出土し、原の辻遺跡に比較すると農耕的な要素が乏しく、漁労や交易(南北市糴)に従事した集団の基地的な集落跡であったことが推測される。
主な遺構
 環濠、土坑、小児甕棺墓
ファイル調査区域図 ファイル大溝,土層図 ファイル遺構実測図  
主な遺物
 石製・骨角製・鉄製漁労具、中国製銅鏡、国産銅鏡・銅鋤先、銅鏃、ト骨、大陸系土器
ファイル漁労具(岡崎1968ほか) ファイルト骨(木村1979)   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡遠景 ファイルW4区3層遺物出土状況 ファイルW15区ト骨出土状況 ファイル

対馬塚古墳

古墳古墳時代壱岐市

双六古墳

古墳古墳時代壱岐市

笹塚古墳

古墳古墳時代壱岐市

掛木古墳

古墳古墳時代壱岐市

石路遺跡

集落跡弥生時代・古墳時代壱岐市
  
遺跡名

 石路遺跡(いしろいせき)

所在地 壱岐市勝本町立石西触字樽見
緯度 北緯33°47′57″経度 東経129°40′42″
標高 50m地形 丘陵
種別 集落跡時代 弥生時代・古墳時代
資料所在地 壱岐市教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 『片苗イシロ遺跡』勝本町文化財調査報告書第5集 1987
遺跡・史跡の概略
 
  遺跡は壱岐島の西岸、勝本町と郷ノ浦町との境界に近い湯ノ本湾の支湾の一つで、片苗湾に面した丘陵部に位置する。遺跡は、地元研究者の松本友雄によって大正末年から昭和初年に発見された。1986年には、個人の畑地基盤整備に伴って勝本町教育委員会が発掘調査を行い、古墳時代初頭の竪穴住居跡1軒、石囲墓4基、多数の柱穴跡が確認されている。この片苗湾東岸の丘陵は、中世に「片苗千軒」と称され、多くの人が住みつき栄えていたといわれており、弥生時代から引き続いて生活が営まれた海民集落であったことが考えられる。
主な遺構
 竪穴住居跡、石囲墓
ファイル住居跡および石囲い墓    
主な遺物
 土師器、陶質土器、滑石製勾玉・平玉、石錘・礫器・凹石
ファイル出土装身具 ファイル出土土器   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡遠景 ファイル遺構出土状況 ファイル住居跡 ファイル出土遺物

勝本城跡

城館跡中世(近世初期)壱岐市

百合畑古墳群

古墳古墳時代壱岐市

鬼屋窪古墳

古墳古墳時代壱岐市

大原天神の森古墳群

古墳古墳時代壱岐市

松尾古墳

古墳古墳時代壱岐市

鎌崎遺跡

遺物包含地縄文時代壱岐市

名切遺跡

遺物包含地縄文時代壱岐市

亀丘城跡

城館跡中世、近世壱岐市

車出遺跡

遺物包含地弥生時代壱岐市

大米古墳

古墳古墳時代壱岐市

大宝遺跡

遺物包含地旧石器時代、古代、中世壱岐市
  
遺跡名

 大宝遺跡(たいほういせき)

所在地 壱岐市郷ノ浦町志原南触字大宝
緯度 北緯33°44′43″経度 東経129°43′14″
標高 54m地形 丘陵
種別 遺物包含地時代 旧石器時代、古代、中世
資料所在地 原の辻遺跡調査事務所指定状況 未指定
参考文献等 『大宝遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第14集 1999
遺跡・史跡の概略
 本遺跡は、壱岐島南部の内陸にあり、谷底平野の谷頭の標高54mの丘陵に立地している。県営ほ場整備事業に伴って、平成10年度(1998)に発掘調査が実施され、古代から中世にかけての遺構・遺物が出土した。遺構では、掘立柱建物4棟、溝4条、柱跡群などが検出された。遺物では、奈良時代8世紀~9世紀の須恵器・土師器、9世紀~13世紀代の中国製青磁・白磁、新羅土器、国産の緑釉陶器、瓦質土器、玄界灘式製塩土器、滑石製石鍋、鞴の羽口、鉄滓などが出土している。遺構や遺物の出土状況から判断すれば、官衙的な施設というよりも地元有力者の居館的な様相をもっていることが推測される。
主な遺構
 掘立柱建物、溝
ファイル遺構配置図 (1/200)    
主な遺物
 輸入陶磁器、緑釉陶器、須恵器、土師器、玄界灘式製塩土器、瓦器、滑石製石鍋、鉄滓、羽口
ファイル出土遺物(1) (1/3) (須恵器) ファイル出土遺物(3) (1/3) (土師器、瓦器、輸入陶磁器など)   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡遠景 ファイル建物跡出土状況 ファイル1・4号溝出土状況 ファイル土器出土状況 

鬼の窟古墳

古墳古墳時代壱岐市

兵瀬古墳

古墳古墳時代壱岐市

壱岐嶋分寺跡

社寺跡古代壱岐市

カジヤバ古墳

古墳古墳時代壱岐市

覩上山古墳群1号墳

古墳古墳時代壱岐市

大塚山古墳

古墳古墳時代壱岐市

妙泉寺古墳群

古墳古墳時代壱岐市

百田頭古墳群

古墳古墳時代壱岐市

釜蓋古墳群

古墳古墳時代壱岐市

覩城跡

城館跡・遺物包含地弥生、古墳、中世壱岐市
  
遺跡名

 覩城跡(とじょうあと)

所在地 壱岐市芦辺町湯岳今坂触
緯度 北緯33°46′11″経度 東経129°44′4″
標高 16m地形 丘陵
種別 城館跡・遺物包含地時代 弥生、古墳、中世
資料所在地 原の辻遺跡調査事務所指定状況 未指定
参考文献等 『日本城郭体系』第17巻 1980、『都城跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書代3集 1997
遺跡・史跡の概略
 覩城跡は、「深江田原」と呼ばれる平野の北西一角にある低い丘陵に立地する城館跡である。築造年代は明確でないが、平治年中(1159)から寿永年間(1182~1185)には長田壱岐守平忠政とその子忠致が居城していたといわれる。その後、正平24年(1369)には志佐氏の居城となり、代官の真弓氏が治めていたが、文明4年(1472)に肥前唐津岸嶽城主の波多泰が壱岐に侵攻し、覩城も落城したといわれる。平成8・9年度(1996・97)と平成17年度(2005)に調査が実施されている。平成8・9年度には、堀・溝・建物跡・土坑などが検出され、14~15世紀を主体とする陶磁器などが出土し、なかでもベトナム・タイの東南アジア産の陶磁器は志佐氏の中継貿易の実態を表す貴重な資料である。平成17年度の調査では、堀・柱穴などが検出され、模鋳銭の可能性をもつ大型銭の未製品が出土している。
主な遺構
 堀、溝、建物跡、柱穴
ファイル主要遺構配置図 (1/500)    
主な遺物
 中国産陶磁器、朝鮮王朝産陶磁器、国産土器・陶磁器、豆板銀、銭貨、青銅製簪、石臼、石塔、硯
ファイル遺構出土遺物(1) (1/3) ファイル遺構出土遺物(2) (1/3) ファイル遺構出土遺物(4) (1/3) ファイル遺構出土遺物(7) (1/3) 

壱岐に行こう 歴史を学ぼう 元寇まで

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壱岐の歴史情報

壱岐(1)/古代ロマンあふれる歴史と文化(長崎県観光)



599年以前600年代700年代800年代900年代1000年代
1100年代1200年代1300年代1400年代1500年代
1600年代1700年代1800年代1900年代2000年代

旧石器時代後期~終末期 カラカミ遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる
旧石器時代後期~終末期 原の辻遺跡〔芦辺町・石田町〕から、この頃に使われたナイフ形石器や台形状石器が見つかる
旧石器時代後期~終末期 原の辻遺跡から この頃に生きていた ナウマン象やオオツノジカの化石が見つかる


縄文時代前期~晩期 名切遺跡〔郷ノ浦町〕にドングリを貯蔵する穴が造られる
縄文時代早期~後期 松崎遺跡〔勝本町〕から、この頃に使われていた縄文土器や石器が見つかる
縄文時代前期~後期 鎌崎遺跡〔郷ノ浦町〕から、この頃に使われていた縄文土器や石器が見つかる


弥生時代前期末 原の辻遺跡の丘陵部に集落が形成される
弥生時代前期末 カラカミ遺跡に集落が形成される


弥生時代中期前葉 原の辻遺跡のある丘陵部のまわりに環濠が掘られ、船着き場が完成する
弥生時代中期初頭 車出遺跡群〔郷ノ浦町〕に集落が形成される
弥生時代中期前葉 原の辻遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる


弥生時代後期 カラカミ遺跡でシカ・イノシシの肩甲骨を使ったト骨が行われる
弥生時代後期 原の辻遺跡が「一支国」の中心集落〔海の王都〕として栄える
弥生時代後期前葉 原の辻遺跡の低地にある居住地が丘陵部に集中する 船着き場が埋まり、環濠が再掘削される
弥生時代後期 天ヶ原セジョウ神遺跡〔勝本町〕に、中広形銅矛3本が埋納される
弥生時代後期 『魏志』倭人伝に「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大国官又曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三


千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」の57文字で一支国の様子が記載されている

古墳時代前期 4世紀中頃、原の辻遺跡にあった環濠集落が解体される
古墳時代前期 大久保遺跡〔石田町〕から、この頃に造られた積石の石棺墓が見つかる
古墳時代前期 片苗イシロ遺跡〔勝本町〕から、5世紀前半頃の住居跡が見つかる


古墳時代中期 5世紀後半頃、大塚山古墳〔芦辺町〕に竪穴系横口式石室の小型円墳が築造される
古墳時代中期 6世紀前半頃、妙泉寺古墳〔芦辺町〕に円墳が築造される


古墳時代後期 6世紀後半頃、松尾古墳〔郷ノ浦町〕に円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃から、百田頭古墳群・山の神古墳群・釜蓋古墳群〔芦辺町〕に円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃、双六古墳〔勝本町〕に全長約91mの前方後円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀後半頃、笹塚古墳や掛木古墳〔勝本町〕、兵瀬古墳や鬼の窟古墳〔芦辺町〕に横穴式石室の大型円墳が築造される
古墳時代後期 6世紀中頃、対馬塚古墳〔勝本町〕に全長約63mの前方後円墳が築造される
古墳時代後期 この頃から、椿遺跡〔石田町〕に拠点が形成される
古墳時代後期 この頃から、串山ミルメ浦遺跡〔勝本町〕に集落が形成される
古墳時代後期 7世紀後半頃、鬼屋窪古墳〔郷ノ浦町〕に捕鯨を線刻した画が描かれた円墳が築造される
古墳時代後期 7世紀頃から、浜田遺跡〔石田町〕で製塩作業が行われる
古墳時代後期 7世紀頃から、中尾遺跡〔石田町〕で製鉄作業が行われる


487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祀り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祀る【神社考】
527年 押見宿禰が月読神社を祀る【顕宗天皇紀】
541年 伊吉公乙等を筑紫伊覩県に遣わし神石を求め、のちに山城国月読神社に奉納する



632年 犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等の名有り
642年 新羅吊使船と賀騰極船が壱岐に泊る【日本書紀】
659年 第四次遣唐使を派遣するが、唐は戦争準備のため派遣使を長安に幽閉する 壱岐出身の伊吉博徳がこの間の記録を残す【日本書紀】
664年 対馬・壱岐・築紫等に防人・烽を置き、大宰府防衛のため水城を築く【日本書紀】


700年 伊吉博徳が大宝律令の編纂に参与し、功績が認められ賜禄される【続日本紀】
706(慶雲3)年 九国三島の干害と風害に対し、使を遣わして調査し、被害の大きい所は調と課役を免じる【続日本紀】
717(養老1)年 勅命により聖母宮〔勝本浦〕を建立する【壱岐神社誌】
718(養老2)年 神岳三所権現〔新城西触〕を鎮座する【神岳三所大権現縁起】
718(養老2)年 壱岐と対馬を下国と規定する【養老令】
720(養老4)年 異族、数万艘の軍船で壱岐に襲来すると必ず北風が吹く これを“聖母の北風”という【聖母社記】
724(神亀1)年 聖母宮を再興し、ト部高巣が奉る【聖母社記】
729(天平1)年 壱岐郡と石田郡の郡境を定める

729(天平1)年 行基が刈田院覚音寺〔立石西触〕を開く
730(天平2)年 壱岐守板氏安麻呂と壱岐目村氏彼方が、大宰府帥老宅で九州全国官人の宴に出席する【万葉集】
731(天平3)年 壱岐・対馬に初めて医師を任命する【続日本紀】
736(天平8)年 雪連宅満が遣新羅使の一行に加わり新羅に向かうも壱岐で病死 のちに壱岐の石田野に埋葬される【万葉集】
737(天平9)年 筑紫配備の防人を本国に帰し、筑紫の人に壱岐・対馬を守らせる【続日本書紀】



741(天平13)年 壱岐・対馬に国分寺〔島分寺〕の建立が命ぜられる
742(天平14)年 壱岐島や対馬島の官人の禄は筑前国司に命じて、廃府の物の中から支給される
744(天平16)年 壱岐にも国分寺〔島分寺〕の設置が決まる【続日本紀】
744(天平16) 壱岐は国分寺を新たに建立せず、壱岐直の氏寺を壱岐国分寺〔壱岐嶋分寺〕と改める【類聚三代格】






759(天平宝字3)年 大宰府や壱岐などに軍船100を置く事を上申するものの実現せず【続日本紀】
763(天平宝字7)年 壱岐島が疫病に見舞われる【続日本紀】
765(天平神護1)年 石見・美作・紀伊・讃岐・淡路・壱岐・多褹の7国が飢饉に見舞われる【続日本紀】
768(神護景雲2)年 壱岐島が飢饉に見舞われる【続日本紀】
769(神護景雲3)年 外従五位下田部直息麻呂を壱岐島守に任命する【続日本紀】
771(宝亀2)年 日向・大隅・薩摩三国、壱岐・多褹両島の博士・医師は、終身の任を改めて八年交替とする【続日本紀】
772(宝亀3)年 貞婦玉主売の功績が称えられ「勅賜爵二級」を与え、田租を終身免ずる【続日本紀】
773(宝亀4)年 壱岐島天位ト部道作・和気清麻呂が宇佐八幡宮に於いて神意を問うにあたり、ト占の任を果たす【宇佐託宣集】
776(宝亀7)年 壱岐島に大風が吹き、苗を失ったため、今年の税を免じる【続日本紀】
787(延暦6)年 ト部道作、聖母神社(勝本浦)に奉仕する【聖母社記】
787(延暦6)年 月読神社(芦辺町)鎮座【月読神社記】
788(延暦7)年 壱岐島5社〔本宮・箱崎・筒城・印鑰・聖母〕を定める【壱岐神社誌】
795(延暦14)年 対馬・壱岐を除き、防人を廃止する




804(延暦23)年 壱岐島の防人に筑前の穀米を送る【日本後紀】
804(延暦23)年 壱岐島に配した大宰府管内6国の防人20人を廃止する 壱岐島の兵士300人を分番配置する【日本後紀】
782~806年〔延暦年間〕 桓武天皇の命により兵主神社〔芦辺町〕を建立する【壱岐国神名記】
806(大同1)年 壱岐が水害と疫病に見舞われたため、1年間、税を免除される【類聚国史】
815(弘仁6)年 壱岐島医師に大初位下蕨野勝真吉の名有り【続日本後紀】
816(弘仁7)年 異賊襲来に備え、壱岐島内の2か所の関を置き、14ヵ所の要害を構える【日本後紀】
828(天長5)年 壱岐直方磨を壱岐国造に任命する
835(承和2)年 新羅人の来航に備え、壱岐島内を防人330人に守らせる【続日本後紀】
837(承和4)年 第17回の遣唐使船が逆風に遭い遭難する 第1船と第4船は壱岐に、第2船は値嘉島に漂着する【続日本後紀】
838(承和5)年 新羅商人の往来に備え、壱岐島に弩師を置く 壱岐島内には弩100脚有り【類聚三代格】
844(承和11)年 諸国の例に準じ薩摩・大隅・壱岐諸国に講師を置く【続日本後紀】
845(承和12)年 日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬諸国の博士・医師の任期を6年とし、内位に叙する【続日本後紀】
851(仁寿元)年 この頃、壱岐の人口10,600人、対馬7,400人と記されている【類聚三代格】
856(斉衡3)年  ト部雄貞が「ト部」を改めて「占部宿禰」を賜う【壱岐神社誌】
859年 海神社〔勝本町〕を従五位にする【日本三大実録】
863(貞観5)年 石田郡の占部是雄と占部業孝に「壱岐宿祢」の姓を授ける【日本三代実録】
866(貞観8)年 伴秋実、応天門の変により壱岐に流罪となる【日本三代実録】
869(貞観11)年 伊岐宿禰是雄を「丹波権椽」に任命する【壱岐神社誌】
870(貞観12)年 壱岐島に武具〔冑・手纒各200〕を送る【日本三代実録】
870(貞観12)年 筑前・肥前・壱岐・対馬などの国に対し、外敵に備えさせる【日本三代実録】
871(貞観13)年 壱岐島に冑などの武具400具備える
872(貞観14)年 従五位下宮主伊伎宿袮是雄が没する〔享年54歳〕【日本三代実録】
876(貞観18)年 壱岐の水田616町有り これは『倭名抄』の620町におおむね一致する【日本三代実録】
880(元慶4)年 伴秋実、恩赦により放免となる【日本三代実録】
883(元慶7)年 朝廷は周防国司に命じて、再び伴秋実を壱岐へ配流する【日本三代実録】
894(寛平6)年 新羅の賊が壱岐を襲い、官舎などを焼き払う
895(寛平7)年 大宰府に新羅の賊が壱岐島に襲来したことを報告する【日本紀略】


906(延喜6)年 豊前国宇佐郡より異国降伏国家擁護の神を白沙八幡に移す
927(延長5)年 『延喜式』神名帳に壱岐島内に24座(大7、小17)有りと記されている
935(承平5)年 壱岐の戸数2,070戸、人口10,350人、と記載有り【倭名類聚抄】
997(長徳3)年 南蛮人〔奄美人〕が、壱岐・対馬を襲う【小右記】









1019(寛仁3)年 刀伊人が壱岐を襲来する 壱岐守藤原理忠が応戦するも戦死する
1046(永承1)年 安国寺大般若経に高麗国金海府許珍寿の墨書施入銘有り
1071(延久3)年 鉢形山出土の石造如来形坐像の背文に「延久3年」と国司正六位佐伯良孝の名有り
1099(康和1)年 盛林和尚が普陀山須仙庵〔坂本触、仙南寺〕を開く【壱岐国続風土記】


1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】
1267(文永4)年 観世音寺〔立石南触〕に至元四年銘の銅造双龍文鏡(円錐紐)有り
1271(文永8)年 箱崎暦応寺〔芦辺町〕を開く【壱岐国続風土記】
1274(文永11)年 元軍、壱岐勝本付近に上陸する〔文永の役〕
1274(文永11)年 守護代平景隆が100余騎で応戦するも、樋詰城で戦死する




1281(弘安4)年 元軍、再び壱岐を襲来する 瀬戸浦付近に上陸する〔弘安の役〕
1281(弘安4)年 瀬戸浦の海戦で、守護代少弐資時が戦死する





1293(永仁1)年 唐津岸岳城主の波多宗無、亀丘城〔郷ノ浦町〕を築城する【三考譜録考鑑】
1294(永仁2)年 異国警護のため壱岐・大島・鷹島などに烽火を設置する






海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐





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アクセス

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〒811-5322
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触(つるきふれ)515番地1
TEL:0920-45-2731 FAX:0920-45-2749



元寇からの壱岐の歴史を現地に行って学びましょう

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博多港から高速艇で70分です。意外と近いから行ってみたらいかがでしょうか?

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1266(文永3)年 壱岐の白沙八幡宮の大宮司源季重家職継承が鎮西守護所へ見参料として牛一頭を進上する【壱岐史拾遺】
1267(文永4)年 観世音寺〔立石南触〕に至元四年銘の銅造双龍文鏡(円錐紐)有り
1271(文永8)年 箱崎暦応寺〔芦辺町〕を開く【壱岐国続風土記】
1274(文永11)年 元軍、壱岐勝本付近に上陸する〔文永の役〕
1274(文永11)年 守護代平景隆が100余騎で応戦するも、樋詰城で戦死する
1281(弘安4)年 元軍、再び壱岐を襲来する 瀬戸浦付近に上陸する〔弘安の役〕
1281(弘安4)年 瀬戸浦の海戦で、守護代少弐資時が戦死する
1293(永仁1)年 唐津岸岳城主の波多宗無、亀丘城〔郷ノ浦町〕を築城する【三考譜録考鑑】
1294(永仁2)年 異国警護のため壱岐・大島・鷹島などに烽火を設置する








1301(正安3)年 波多宗無の妻華渓女が病死する その後天祐貴公、武生水に母の菩提寺華渓院〔現・華光寺〕を創建する
1310(延慶3)年 『国牛十図』に筑紫牛として壱岐の牛が有名になる
1325(正中2)年 湯岳田原山に嘉暦城を築城する
1338(延元3 暦応1)年 壱岐島神社数の調査が行われる 壱岐郡106社、石田郡109社 〔現れたる小神488社、隠れたる小神888社有り〕【壱岐神社考】
1338(延元3 暦応1)年 足利尊氏が「海印寺」を「安国寺」と改める
1340(興国1 暦応3)年 本宮八幡宮〔本宮西触〕の御殿を建立する
1350(正平5 観応1)年 安国寺に足利尊氏の鬢髪が到来する【老松山安国海印禅寺史】
1351(正平6 観応2)年 主殿寮、壱岐島の志原保を治める
1351(正平6 観応2)年 筑前国八幡筥崎宮の神領に壱岐島瀬戸・椙原の両村名あり【史淵】
1369(正平24 応安2)年 松浦党の志佐・佐志・鴨打・呼子・塩津留の5氏が壱岐を分治する
1369(正平24 応安2)年 志佐壱岐守源義の代官源武が池田に真弓館を構える【続風】
1377(天授3 永和3)年 覚音寺〔立石西触〕の仏殿を造営する
1386(元中3 至徳3)年 下松浦志佐郷直谷城主の志佐氏は西間村の民を使って壱州堀を掘らせる【続風】
1393(明徳4)年 佐志氏はじめて壱岐守を名乗る
1396(応永3)年 将軍足利義満が顕悦を壱岐安国寺住職に任命する
1397(応永4)年 大内義弘が朝鮮に使いを送り、一岐・対馬の島民に禁寇を約束させたことを伝える【李朝実録】
1399(応永6)年 一岐安国寺の新住持顕悦が朝鮮に礼物を進献する【李朝実録】



1400(応永7)年 神岳山金蔵寺〔新城西触〕に「応永七年」銘の銅造鰐口有り
1406(応永13)年 将軍足利義満によって、壱岐国安国寺領(3,000石)の停止が復活する
1408(応永15)年 志佐代官兵部少輔源武が真弓城に入る
1412(応永19)年 神岳三所権現宮〔新城西触〕に銅造梵鐘の寄進有り
1433(永享5)年 刈田院覚音寺〔立石西触〕に唐鐘が奉納される
1433(永享5)年 志佐壱岐守重が壱岐を攻めて全島を統治する
1434(永享6)年 神岳三所権現宮伝来の馬牌銘に明の宣徳9年と有り
1435(永享7)年 神楽舞人数の事の記録あり【聖母宮文書】〔壱岐神楽についての最古の記録〕
1429~1441年〔永享年間〕 朝鮮使節の朴瑞正が来朝し、壱岐・平戸等の海賊を禁止することを要望する【世宗実録】
1444(文安1 嘉吉4)年 神岳山金蔵寺〔新城西触〕に「嘉吉四年」銘の木造薬師如来坐像有り
1454(享徳3)年 新庄村中津宮〔北触〕を造営し遷宮する 宮司を吉野五郎三郎末貞を迎える【吉野氏系譜】
1462(寛正3)年 壱岐国安国寺への壱岐守源義の寄進状あり【松浦家世伝】 源義、壱岐州安国禅寺の仏殿を造営し、寺領を寄進する
1462(寛正3)年 壱岐守源義が安国寺を造営し、境内の竹木山林などを寄進するとあり
1470(文明2)年 天山瑞石和尚が医王山三光寺を勝本浦坂〔坂本触〕に開く
1471(文明3)年 蘭室秀和尚が温泉山医王院〔立石西触〕を再興する
1471(文明3)年 『海東諸国図』の中に日本国一岐島で壱岐が登場する
1472(文明4)年 上松浦岸岳城主波多泰が壱岐を奇襲する 志佐壱岐守源義ら五氏代官を湯岳田原城に討ち、壱岐を領有する のちに亀丘城を改築して居城とする
1477(文明9)年 橘頼兼が熊野神社〔立石南触〕に狛犬を奉納する
1482(文明14)年 岳山地蔵堂〔百合畑触〕に「文明14年」銘の石面地蔵像有り
1486(文明18)年 1046(重熙15)年の高麗初版大般若経が川棚長浜明神より安国寺に施入替えとなる
1487(長享1)年 白花山刈田院覚音寺〔立石西触〕を再建する
1489(延徳元)年 波多下野守興が川北と中ノ郷を女婿の松浦興信に譲与する【続風】
1490(延徳2)年 箱崎八幡宮を造営する 棟札に壱岐守波多泰と波多与と記す【吉野文書】
1497(明応6)年 榎川の阿弥陀堂〔布気触〕に鰐口寄進有り





1501(文亀1)年 中津宮〔北触〕を造営し、遷宮する【壱岐神社誌】
1506(永正3)年 波多三河守盛が、「華渓院」を改め「如意山華光寺」として開山する
1524(大永4)年 河北中郷〔芦辺町〕が、松浦興信の領地となる【松浦家文書】
1526(大永6)年 聖母香椎宮〔勝本浦〕の内殿を造り替える
1527(大永7)年 水元〔布気触〕の天満天神の御霊形を再興する
1528(享禄1 大永8)年 神岳山金蔵寺〔新城西触〕に「大永八年」銘の木造地蔵菩薩坐像有り
1528(享禄1 大永8)年 報恩寺〔本宮東触〕に「大永八年」銘の木造十一面観世音菩薩坐像有り
1531(享禄4)年 熊野大権現本宮〔立石南触〕の御神体の裏書きに「享禄4年11月17日大旦那源盛宮権少僧都澄慶」とあり ※源盛は岸丘城主波多壱岐守源盛(松浦叢書)
1534(天文3)年 釈菊淵が清水谷〔立石西触〕の竜谷院を開く
1535(天文4)年 神岳山本宮寺〔現・神岳山金蔵寺〕所蔵の大般若経の奥書に「1月25日波多壱岐守源朝臣義」と記す【壱岐史拾遺】
1537(天文6)年 波多弾正忠源武が若宮大明神〔北触〕の宝殿・庫蔵を造立する
1537(天文6)年 神岳山金蔵寺に「天文六年」銘の木造地蔵菩薩半跏趺坐像有り
1538(天文7)年 平戸城主の松浦興信が中野郷瀧の上妙泉寺を建立する
1541(天文10)年 報恩寺〔本宮東触〕に「天文十年」銘の木造十一面観世音菩薩坐像有り
1547(天文16)年 明室灯儀大和尚が亀鶴山安楽寺〔立石仲触〕を開く
1551(天文20)年 異雪和尚〔長門国大寧寺十三世〕が龍蔵寺を開く
1555(弘治1)年 波多氏は藤堂丸〔のちの波多三河守親〕を養子とし家をつがせる
1555(弘治1)年 六人衆に追われ、有安鵜の部海岸〔郷ノ浦町〕にて波多隆と馬渡弥八右ヱ門、草履取一人と共に自害する
1552~1555(天文年間)年 日高大膳が箱崎村船匿城〔芦辺町〕に居住する
1555(弘治1)年 波多隆、立石三河・牧山善右衛門・牧山大舎人・下條将監・下條掃部・松本左近らの六人衆の陰謀を聞いて亀丘城を脱出
1556(弘治2)年 六人衆は波多重を筒城権現崎〔石田町〕にて射殺する【華光寺鬼薄】
1557(弘治3)年 六人衆が壱岐を分治する
1562(永禄5)年 文明和上が妙喜山源長寺を布城〔立石南触〕に開く
1562(永禄5)年 波多信時が壱岐国分天満祠〔芦辺町】を再建する【松浦家世伝】
1563(永禄6)年 日高甲斐守喜が歳晩の祝詞に岸岳城へ登城し城を焼き波多親母子を追放する これより日高甲斐守喜が上松浦・壱岐を治める【松浦家世伝】
1563(永禄6)年 波多三河守信時の後室新芳が茶宴に事よせ、毒味を与えて老臣日高大和守資を暗殺する【松浦家世伝】
1564(永禄7)年 日高甲斐守喜は歳晩の祝詞のため岸岳城へ登城し、城に火を放つ 後室新芳と藤堂丸〔波多親母子〕は日高氏の女二人を人質に草野ヘ逃れる これより日高甲斐守喜が上松浦と壱岐を治める
1565(永禄8)年 松浦氏は守護代として井関宗蓮を壱岐に派遣する【松浦家記録】
1565(永禄8)年 日高甲斐守喜が壱岐に入り、波多政とともに六人衆を滅ぼす 波多政を壱岐城代として上松浦へ戻る
1566(永禄9)年 松浦隆信が立石重兼に恩賞として刀・馬を与う〔六人衆の乱の処理〕【松浦家世伝】
1566(永禄9)年 天手長男神社〔郷ノ浦町〕の棟札に司島として上総介源壹の名あり【天手長男神社棟札】
1566(永禄9)年 松浦隆信が壱岐に来島する
1566(永禄9)年 松浦隆信の家臣波多重が井関宗蓮を討ち、壱岐国を回復する【松浦家世伝】
1567(永禄10)年 肥前国の波多信時の臣日高甲斐守喜が松浦隆信の傘下に下る 隆信は日高甲斐守喜を壱岐城代として壱岐国を守らせる【大曲覚書】
1567(永禄10)年 松浦隆信は華光寺に寺領2町2反を寄進する
1567(永禄10)年 『壱岐国田帳〔永禄田帳〕』が完成する
1569(永禄12)年 松浦鎮信軍が暴風に遭い、日高氏の岸岳城に向かうのが遅れる【松浦家世伝】
1569(永禄12)年 日高軍は松浦軍の援兵を受け、安国寺を攻める 波多隆・重の兄弟は松浦隆信の家臣西常陸の手によって殺害される【松浦家世伝】
1570(元亀1)年 湯岳〔芦辺町〕に印鑰大明神拝殿を造営する 棟札に壱岐正守護日高甲斐守源喜と有り
1570(元亀1)年 日高甲斐守喜は松浦隆信軍の援軍を受け、壱岐城代の波多政を倒す 壱岐守護と称して全島を治める
1558~1570(永禄年間)年 志原村軍越神社を古軍越丘より今の位置に移す
1570(元亀1)年 松浦隆信が壱岐の亀丘城を修築する
1570(元亀1)年 長峰村〔郷ノ浦町〕の高峰神社宝殿を再建する 棟札に日高甲斐守喜と有り
1571(元亀2)年 宗義調が壱岐を攻めるが日高軍と松浦軍の連合軍の前に敗れる〔浦海の合戦〕
1571(元亀2)年 松浦鎮信は壱岐の援軍として兵士300人を率い平戸を出発する
1571(元亀2)年 筒城山根に西福寺を開く
1571(元亀2)年 日高甲斐守喜は誓紙と人質を松浦隆信へ送り、松浦氏へ属することを誓う 松浦隆信は人質の女を二男信実の妻とし、信実を壱岐城代とする
1572(元亀3)年 亮賢が実相院を神岳里〔新城西触〕に開く
1572(元亀3)年 筒城社務の平田宮千代が『神名品書』を編纂する【壱岐神社誌】
1573(元亀3)年 暹空が若宮山金蔵寺〔北触〕を再興する
1572(元亀3)年 松浦隆信が若宮大明神〔北触〕の宝殿を再建する
1573(天正1)年 松浦鎮信が壱岐に入り、国中を巡見する
1573(天正3)年 大盛和尚が雲岫山興禅院〔片山触〕を開く
1576(天正4)年 中津宮〔北触〕を造り替え、遷宮する【壱岐神社誌】
1578(天正6)年 ポルトガル船の「ナオ号」が印通寺浦に入港する【中尾内蔵多正重の代】
1580(天正8)年 頼秀が聖母山神皇密寺〔勝本浦〕を開く
1584(天正12)年 照隣和尚が高峯山寿慶庵を立石嶺〔立石西触〕に開く
1586(天正14)年 松浦鎮信が壱岐を17,729石と定める
1586(天正14)年 壱州の賊が、対馬の仁位郷を侵す【津島史略】
1586(天正14)年 宗義調が兵を遣わし、壱州を攻めるが失敗に終わる
1587(天正15)年 松浦鎮信が壱岐神岳山の僧を対馬に遣わし、宗義智との和議を求める【日高文書】
1588(天正16)年 壱岐私蔵の武器を収公する【松浦家世伝】
1591(天正19)年 豊臣秀吉が松浦鎮信に命じ勝本城を築く 本多因幡守俊正(俊政)に守らせる【松浦家文書】
1592(文禄1 天正20)年 聖母神社に「天正二十年」銘の飴釉三耳壺有り
1592(文禄1 天正20)年 勝本城頭に稲荷神社を建立する【壱岐神社誌】
1592(文禄1 天正20)年 宗沙門が聖母大菩薩へ茶壺を奉納する
1592(文禄1 天正20)年 加藤清正が聖母香椎宮〔勝本浦〕の石垣を築いたと云われている
1592(文禄1 天正20)年 小西行長や松浦鎮信軍が、勝本を出港し、対州に至る【壬辰戦乱史】
1593(文禄2)年 文忠が妙喜庵を布城打門〔立石南触〕に開く
1593(文禄2)年 日高甲斐守喜が朝鮮平安道松山城にて討死する【廣澤家譜略寫】
1594(文禄3)年 明の使い一行を勝本でもてなす【松浦家世伝】
1594(文禄3)年 八幡浦〔芦辺町〕が形成される【蜑戸伝語】
1598(慶長3)年 加藤清正が朝鮮より壱岐国に帰着する【黒田家譜】
1598(慶長3)年 日高玄蕃が神託により日高甲斐守喜の霊祠を建てる




1602(慶長7)年 27代松浦泰岳久信が伏見にて没する 後年安国寺に拝塔を建てる
1604(慶長9)年 壱岐国の石高15,732石と記録される 〔うち立石村559石・布気村359石・本宮村637石・香須村640石・新城村696石と記されている〕【平戸分領并壱岐嶋田畠惣目録】
1607(慶長12)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 翌日勝本を出港し藍島に入港する【慶七松海槎録】
1607(慶長12)年 朝鮮通信使が名護屋を出港し、同日勝本に入港する 翌日勝本を出港し、対馬に入港する【慶七松海槎録】
1610(慶長15)年 西間村〔古来からの呼び名〕を旧に戻して「石田村」と改める
1612(慶長17)年 松浦鎮信が聖母神社の拝殿を再建する【壱岐神社誌】
1613(慶長18)年 松浦隆信が領土の地高目録を幕府に提出する 壱岐を17,729石と定める
1613(慶長18)年 全国に禁教令を敷く 宣教師プレネスティノの書簡に「壱岐の島」の名が出てくる
1617(元和3)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 翌日勝本を出港し、藍島に入港する【呉楸灘東槎上日録】
1617(元和3)年 幕府朱印状に壱岐国壱岐郡9,816石余、石田郡7,910石余と記される【台徳院様御朱印状写】
1617(元和3)年 朝鮮通信使が呼子を出港し、壱岐の西南津を通り対馬へ直行する 同日に到着対馬に入港する【呉楸灘東槎上日録李石門扶桑録】
1617(元和3)年 松浦隆信が聖母香椎宮に社領2石・安養山東光寺〔仲触〕に知行5石を寄付する
1619(元和5)年 モラレスとメーナ神父が壱岐へ連行される
1619(元和5)年 モラレスとメーナ神父が4月4日まで「ユキノシマのイッシュの所」に抑留される
1619(元和5)年 モラレスとメーナ神父が大村の鈴田牢屋へ移される
1620(元和6)年 ズニガが壱岐の石田にある平戸藩の牢舎に送られる【切支丹伝道の興廃】
1620(元和6)年 ズニガの壱岐での牢舎生活の手紙有り【切支丹伝道の興廃】
1621(元和7)年 アミール日本に渡来する 平戸宇久港で捕えられ、壱岐の獄舎に繋がれ、のち平戸のタバラ刑場において殉教する
1622(元和8)年 カミルロ・コンスタンツオの宿主野島が壱岐の島にて処刑される【鮮血遺書】
1622(元和8)年 オクスチン大田の宿主ガブリエル金次郎が壱岐島にて処刑される【鮮血遺書】
1623(元和9)年 安国寺の僧秀国が命を受けて上洛する 龍光院江月和尚と師弟関係になる 以来安国寺は南禅寺派を脱し、大徳寺派となる【壱岐国続風土記】
1624(寛永1)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 同月24日に勝本を出港し、藍島に入港する【姜弘重東槎録】
1624(寛永1)年 深澤義太夫(儀太夫)が壱岐に来て、銛鋒突法による捕鯨業を営む
1624(寛永19)年 長門豊浦郡住吉の社家篠崎宮内正興、嫡子隼人とともに諸吉清石浜に到着し、芦辺浦に住吉神社を鎮座する 地名を「豊浦」と改める
1625(寛永2)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月15日に勝本を出港し、対馬に入港する【姜弘重東槎録】
1625(寛永2)年 松浦隆信が聖母香椎宮に社領2石寄付する
1625(寛永2)年 松浦隆信が聖母山神皇密寺〔坂本触当時竜宮寺〕に寺産10石、神岳山本宮寺〔新城西触〕に寺領20石寄付する
1635(寛永12)年 豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1636(寛永13)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 同月27日勝本を出港し、藍島に入港する【任参判丙子日本日記】
1637(寛永14)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、対馬に直行し、翌14日に入港する【任参判丙子日本日記】
1640(寛永17)年 平戸領内の道筋に並木を植える 壱岐島では勝本街道の大手ノ辻大屋原・百間馬場・亀石、芦辺街道の長松などに植樹する【御廻記】
1641(寛永18)年 岳ノ辻と若宮島に遠見番と烽台を置く【吉野家文書】
1643(寛永20)年 松浦鎮信が神岳山本宮寺〔新城西触〕へ寺領20石、聖母山神皇密寺〔坂本触〕へ10石、白花刈田院覚音寺〔立石西触〕へ5石、本宮八幡宮〔本宮西触〕へ社領2石寄付する
1643(寛永20)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 同月17日勝本を出港し、名護屋に入港する【徳川実紀】
1643(寛永20)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月27日勝本を出港し、対馬に入港する【癸未東槎日記】
1624~1644(寛永年間)年 明石善太夫・吉村五兵衛らが、小川島と壱州印通寺浦に鯨組を構える【鯨記】
1644(正保1 寛永21)年 聖母神社に「寛永二一年」銘の石燈籠有り
1645(正保2)年 壱岐国に派遣された絵師が『壱岐島絵図』〔正保絵図〕を作成し藩主に提出【松浦家世伝】
1645(正保2)年 正保絵図に「触」が書かれており、藩庁から藩民への通達に各地域に吏員〔触役〕をおき、“お触書き”を使用する
1652(承応1)年 谷江潟に新田2町、大左右松崎の新田15が開拓される
1652(承応1)年 深江村鶴木下ル浜の住民70余戸を郷ノ浦に移す
1653(承応2)年 豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1653(承応2)年 松浦鎮信が平戸の田助に新地を築き、壱州と小値賀の浦人50人を移し、新三浦が出来る 又、郷ノ浦に長さ300間、横8間の新地を築き、家70軒余を建てる
1654(承応3)年 豊浦〔芦辺町〕が再度大火事に遭い焼失する。
1655(明暦1)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日壱岐屋久(若宮)島に入港する 同月26日勝本を出港し、藍島に入港する【徳川実紀】
1656(明暦2)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月12日勝本を出港し、対馬に入港する【南壺谷扶桑録】
1656(明暦2)年 疫病が大流行する 諸吉〔芦辺町〕と可須〔勝本町〕の農民ら半数以上死亡する【勝本祠官系譜】
1656(明暦2)年 検地の結果、壱岐の田高20,164石、畑高11,405石、新開田14,281石と記されている【明暦二年田方帳】
1656(明暦2)年 松浦鎮信の命により、箱崎村平江〔芦辺町〕の入江を埋築し、約20町歩の新田を開拓する【吉野文書】
1660(万治3)年 印通寺浦〔石田町〕が焼失する
1660(万治3)年 松浦鎮信が鷹狩を行うために来島する 浦人に米を与える
1661(寛文1 万治4)年 初山村〔郷ノ浦町〕の犬切という小山に新たに田畑を開き、百姓25軒を移す
1661(寛文1万治4)年 湯ノ本潟〔湯本浦〕に48間に25間の新地を築き、浦人25軒を移し、入湯者の休泊所とする
1661(寛文1 万治4)年 深沢儀太夫が竜蔵寺〔芦辺町〕の客殿を造り替える
1662(寛文2)年 筒城村堂崎〔石田町〕に夕部浦の浦人13戸を移す【吉野屋譜】
1662(寛文2)年 恵比須浦〔芦辺町〕の鯨組が平戸吉村又右衛門、谷川利兵衛、網屋惣左衛門、江口十左衛門、磯部弥一郎、明石播磨屋又右衛門、瀬戸松屋与四兵衛、大村深沢儀太夫の八人共同となる【西海鯨鯢記】
1663(寛文3)年 聖母神社に「寛文三年」銘の猿田彦神楽面有り
1664(寛文4)年 豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1664(寛文4)年 松浦鎮信が山本甚左衛門を従えて壱岐に入り、長嶺三津の辻・物部大原〔以上郷ノ浦町〕・池田田崎〔石田町〕で鷹狩を行う その後安国寺〔芦辺町〕にて演能を観覧する【壱岐史拾遺】
1664(寛文4)年 今里〔芦辺町〕と夕部浦〔石田町〕の民家を棚江に移す のち八幡浦〔芦辺町〕と改める【松浦家世伝】
1664(寛文4)年 壱岐の飼育馬が430頭余と有り【壱岐史拾遺】
1671(寛文11)年 豊浦〔芦辺町〕が焼失する
1671(寛文11)年 度重なる火災に見舞われたため、「豊浦」を「芦辺浦」と改める
1672(寛文12)年 牛の疫病が流行する〔新庄・箱崎・諸吉より始まる〕 角上〔郷ノ浦町〕に牛神を奉納する〔のちの津神社〕
1661~1673(寛文年間)年 壱岐国に城代を置く【平戸藩法令規式集成】
1673(延宝1 寛文13)年 春浦のため、鯨組を勝本より対馬へ移動する
1673(延宝1 寛文13)年 芦辺浦〔芦辺町〕が焼失する
1673(延宝1 寛文13)年 『鯨場中日記』に「寛文13年5月~延宝2年5月の壱岐漁場の記録」有り
1673(延宝1 寛文13)年 本宮八幡宮〔本宮西触〕に「寛文十三年」銘の猿田彦神楽面有り
1674(延宝2)年 華光寺雲版に「宗在」銘品有り
1676(延宝4)年 橘三喜が対馬より壱岐勝本浦に入る【一の宮巡詣記】
1676(延宝4)年 橘三喜が、延喜式内社の24社を訪ねる【一の宮巡詣記】
1676(延宝4)年 鉢形嶺〔郷ノ浦町〕の頂上から石碑発見 「延久二年正月一五日」銘有り
1676(延宝4)年 式内社査定により「水元の天神」を「水神社」〔布気触〕と改める
1676(延宝4)年 中津神社〔北触〕に「延宝四年」銘の石造明神鳥居有り
1677(延宝5)年 鉢形嶺〔郷ノ浦町〕の頂上より温石弥勒像発見 「自延久二年三月至三年六月成就」の銘有り
1680(延宝8)年 勝本に押役所を置く【勝本祠官系譜】
1680(延宝8)年 深沢儀太夫が捕鯨に網漁法を発明 「突組」を改め「網組」漁法に改める
1681(天和1)年 鉢形領に経筒を再び埋め戻す
1682(天和2)年 朝鮮通信使が対馬を発出港し、同日勝本に入港する 同月9日勝本を出港し、藍島に入港する【金譯士東槎日録】
1682(天和2)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、対馬に直行する 翌17日に入港する【金譯士東槎日録】
1689(元禄2)年 黒崎〔郷ノ浦町〕の金山の採掘をやめる【松浦家世伝】
1689(元禄2)年 熊野神社〔立石南触〕に「元禄二年」銘の石造明神鳥居〔鎮信鳥居〕有り
1696(元禄9)年 松浦任〔棟〕が聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神皇密寺〔坂本触〕に寺領10石、神岳山本宮寺〔新城西触〕に10石、覚音寺に5石寄付する
1697(元禄10)年 壱岐の村落名を旧名に復する〔香椎村を可須村、中郷村を那賀郷村、住吉村を鯨伏村、桜江村を物部村〕
1697(元禄10)年 山本甚左ヱ衛門と藤原清方によって壱岐郡と石田郡の郡界が改められる【吉野文書】

1700(元禄13)年 『壱岐国図』を幕府に提出する【御廻記】
1700(元禄13)年 3月26日に大地震が起き、壱岐・平戸の人家が破損する【松浦家世伝】
1700(元禄13)年 江戸の無宿者100人を壱岐へ流罪とする【松浦家世伝】
1700(元禄13)年 藩主より天手長男神社〔郷ノ浦町〕に高2石・祭米6升5合寄付される【松浦家世伝】
1707(宝永4)年 庸岩が覚音寺〔立石西触〕に大般若経を奉納する〔現在、玉泉寺に有り〕
1707(宝永4)年 烽山金比羅神社〔東触〕に「宝永四年」銘の銅鰐口有り
1710(宝永7)年 河合曽良が勝本浦の中藤家にて病死する
1711(正徳1)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する【松浦家世伝】
1711(正徳1)年 瀬戸浦〔芦辺町〕が焼失する【松浦家世伝】
1712(正徳2)年 朝鮮通信使が勝本に入港する 同月9日勝本を出港し、対馬に入港する【松浦家世伝】
1713(正徳3)年 若宮神社〔北触〕に「正徳三年」銘の猿田彦神楽面有り
1713(正徳3)年 吉野秀政が箱崎八幡社家の吉野秀教の長男として生まれる
1716(享保年中)年 政治村落数(触と浦)111有り【壱岐国続風土記】
1716(享保1)年 平戸山口屋助左衛門が壱岐に来て捕鯨業を経営する
1717(享保2)年 箱崎恵比寿の丘に鯨供養塔を建立する
1719(享保4)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 8月1日勝本を出港し、藍島に入港する【申維翰海遊録】
1719(享保4)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 同月20日夜中に勝本を出港し、翌日対馬に入港する【申維翰海遊録】
1719(享保4)年 爾自神社〔郷ノ浦町〕において朝鮮通信使のための順風祈願をする
1720(享保5)年 壱岐の飼育馬417頭〔駒65頭・駄馬352頭〕【郡鑑】
1721(享保6)年 壱岐国の人口39,376人、田1,030町、畑1,776町、牛8,666、鬼屋〔古墳〕194、酒屋34と記されている
1722(享保7)年 松浦篤信が聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神岳山本宮寺に寺領20石、神皇密寺に10石、観世音寺に5石1斗、覚音寺に5石寄付する
1722(享保7)年 藩主の命により国分寺〔芦辺町〕は本山となり、その開墾する田20石を賜い、今までの10石と合わせて30石となる また別に開墾する田10石を阿弥陀寺に賜う【年寄方日記寺社役記】
1722(享保7)年 大久保佐渡守が松浦氏に命じ壱岐の石窟〔古墳〕を調査させる 鴨井助五平と尾野尚意に島内を巡見させ、絵図を作らせる【松浦家世伝】
1723(享保8)年 長谷川元喜が湯ノ本に新田を開拓する【新田方記録】
1723(享保8)年 許斐氏〔加々右衛門〕が潟長江新田〔立石西触〕の開発に着手する【壱岐刈田院観音寺旧記】
1727(享保12)年 徳川吉宗が「甘藷栽培」を奨励する すでに壱岐では琉球イモ栽培が行われている
1727(享保12)年 勝本の土肥甚右衛門が郷ノ浦の許斐小左衛門、瀬戸の布屋九郎右衛門、芦辺の篠崎与右衛門の4人、共同して捕鯨を行う
1728(享保13)年 壱州鯨組方目付を配置する
1730(享保15)年 芦辺浦が火災に見舞われ、人家が焼失する【松浦家世伝】
1731(享保16)年 生月の益富又右ヱ門、江戸の油屋又右ヱ門ら5人が集まり、壱岐での捕鯨活動を行う
1731(享保16)年 瀬戸漁民が鰤網を考案する 勝本漁民が鮪網を考案する
1731(享保16)年 潟長江新田〔立石西触〕の開発が完了する【壱岐刈田院観音寺旧記】
1735(享保20)年 『壱岐巡り』が完成する 著者は橘三喜と伝える【壱陽伝記】
1716~1736(享保年中)年 藩では行政の必要上村の地図を作り、行政区画を設定する 名称を「触」とする
1738(元文3)年 住吉神社〔芦辺町〕が落雷を受け、御殿・拝殿・御饌舎が炎上する【壱岐国続風土記】
1739(元文4)年 前年、落雷で焼失した住吉神社の社殿を造営する
1739(元文4)年 小山弥兵衛が生野一揆の罪により壱岐へ配流される
1739(元文4)年 夷浦〔瀬戸浦恵比須〕、田ノ浦〔仲触〕の両捕鯨根拠地〔納屋場〕を益富又右ヱ門、土肥市兵衛の両家で経営とする【吉野文書】
1741(寛保1)年 深江村〔芦辺町〕の畑の畔より、古銭5貫文余が入った壺一口が掘り出される
寛保2 吉野秀政、亀岡城に招致され、藩主より『壱岐国続風土記』撰述の命を受ける(壱岐郷土史)
1742(寛保2)年 瀬戸浦と勝本浦の鯨組が、天手長男神社へ黒皮大神楽を奉納する【壱岐神社誌】
1744(延享1)年 吉野秀政が『壱岐国続風土記』の編纂を完了し、藩主松浦誠信に提出する
1748(寛延1)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 4月1日勝本を出港する【松浦家世伝】
1748(寛延1)年 朝鮮通信使が勝本に入港する 同月18日勝本を出港し、対馬に入港する【松浦家世伝】
1748(寛延1)年 朝鮮通信使来朝のため、爾自神社において順風祈願の大神楽を奉献する
1749(寛延2)年 松浦誠信が、聖母神社に社領2石、本宮八幡宮に2石、熊野神社北山社に1石、神岳山本宮寺に寺領20石、神皇密寺に10石に5石1斗、覚音寺に5石寄付する
1753(宝暦3)年 国分当田新田の埋築工事が一部完成する〔起工者土肥八右衛門、土肥甚右衛門〕「土肥新田」と名づける【吉野文書】
1761(宝暦11)年 湯ノ浦が出火し、人家残らず焼失する【御廻記】
1762(宝暦12)年 土肥市兵衛が夷浦〔瀬戸浦恵比須〕を埋築して、捕鯨業根拠地を拡張する
1763(宝暦13)年 爾自神社〔郷ノ浦町〕において朝鮮通信使来朝のための順風祈願を行う
1763(宝暦13)年 朝鮮通信使が対馬を出港し、同日勝本に入港する 12月3日勝本を出港し、藍島に入港する【松浦家世伝】
1763(宝暦13)年 朝鮮通信使が逆風により壱岐に滞留する 爾自神社において順風祈願の大神楽を奉する
1764(明和1)年 郷ノ浦が火災に見舞われる【松浦家世伝】
1764(明和1)年 朝鮮通信使が藍島を出港し、同日勝本に入港する 6月13日勝本を出港し対馬に入港する【松浦家世伝】
1764(明和1)年 朝鮮通信使の帰国のため、爾自神社において順風祈願を行う
1767(明和4)年 朝鮮に漂流した壱岐芦辺浦の3人が、対馬⇒長崎を経て、長崎奉行より引渡される【松浦家世伝】
1767(明和4)年 土肥市兵衛が勝本の本浦を開拓して邸宅〔御茶屋屋敷〕を構える 3年の歳月を費やしたと伝える【吉野文書】※現在は御茶屋屋敷石塀のみが残る
1773(安永2)年 土肥甚平治〔甚兵衛〕が、国分当田の新田開拓の許可を受ける【吉野文書】
1777(安永6)年 勝本の土肥甚平治が国分当田新田を開拓し、50町余り新たに増える【吉野文書】
1780(安永9)年 松浦清〔静山〕が亀丘城にて諸士を閲見する【松浦家世伝】
1780(安永9)年 松浦清が勝本の土肥八右衛門の別棟に泊る【松浦家文書】
1786(天明6)年 壱岐の人口が24,771人と記される
1792(寛政4)年 江戸諸役所が規格を定め、土肥・益富両家に御用金一万両の上納を命ぜられる【御廻記】
1792(寛政4)年 郷ノ浦のある今西商店〔藤四郎〕にこの頃の客面附牒〔同家に出入した島外の商人の名前控帳〕有り
1798(寛政10)年 国中の神社として、本社42座・末社794座、計836座の記録有り【壱岐国続風土記】
1798(寛政10)年 壱岐の飼育馬が35頭と記されている【壱岐国続風土記】

1803(享和3)年 地割りに抗議して源蔵〔源三〕事件起こる
1803(享和3)年 源蔵〔源三〕が起こした事件のことが記される〔百姓源蔵事件〕【太宰府天満宮御講主善作】
1807(文化4)年 琉球の住民が印通寺浦に漂着する 平戸を経て長崎に送り帰国させる
1808(文化5)年 勝本土肥市兵衛が金800両を藩主に献上する
1809(文化6)年 松浦熙が壱岐に大銃を設置する
1810(文化7)年 刀鍛冶脇山形七〔刀工名:正行〕の勝本居住が許可される【城代日記】
1810(文化7)年 勝本押役所と若宮島遠見番に足軽配置 中尾丹弥の指揮のもと、稽古場において軍事訓練を行う【郡方日記】
1810(文化7)年 松浦熙が儲米300石を壱岐に置いて非常時に備える
1811(文化8)年 聖母神社に「文化八年」銘の刀有り〔脇山正行作〕
1813(文化10)年 伊能忠敬が平戸・壱岐・対馬・五島などを実測する
1814(文化11)年 源蔵〔源三〕と作五郎が遠流となる【太宰府天満宮御講主善作】
1820(文政3)年 益富又右衛門が勝本にて捕鯨を行う
1820(文政3)年 源蔵(源三)が百間馬場において処刑される〔享年43歳〕
1820(文政3)年 源蔵〔源三〕を壱岐に送致する
1825(文政8)年 印通寺浦の天満屋與右衛門の船が小呂島にて難航する
1826(文政9)年 勝本の名烏島に朝鮮の船板が漂着する【熊野神社記】
1830(天保1)年 印通寺浦の百崎常蔵の住神丸が瀬戸浦口にて破船する
1838(天保9)年 勝本をめざす平戸大島の船が渡良にて難船する
1839(天保10)年 覚瑜が流罪者の娘と結婚し渡良村に居住する【福田家文書】
1840(天保11)年 勝本原田元右衛門〔二代目〕の捕鯨活動が許可される【原田家文書】
1843(天保14)年 勝本原田元右衛門が捕鯨業を営む
1845(弘化2)年 亀丘城を再築する【壱岐国御順見之記】
1849(嘉永2)年 異船船の通報を受け出兵する 平戸本藩より手当ての人数派遣する
1849(嘉永2)年 異国船を勝本沖で発見する 土肥甚右衛門が急報する
1850(嘉永3)年 壱岐近海に異国船5艘あらわれる
1854(安政1 嘉永7)年 本宮八幡宮〔本宮西触〕に「嘉永七年」銘の武者絵馬有り
1855(安政2)年 壱岐に社倉を設置する【松浦家世伝】
1855(安政2)年 平戸親衛士隊長の葉山高行が玉主売の建碑を建立する
1855(安政2)年 勝本浦沖に異国船渡があらわれる
1856(安政3)年 異国船打払令が出る
1856(安政3)年 壱岐近海に異国船があらわれる
1857(安政4)年 幕府の蒸気軍艦観光丸〔旧スームビング号〕が壱岐沖を航行する
1857(安政4)年 聖母神社に山内利兵衛作の「安政四年」銘の神使石像〔石牛〕有り
1858(安政5)年 可須村の軍用米50俵〔20石〕を立石村に預ける【郡方日記】
1859(安政6)年 郷ノ浦町元居の漁船が五島沖で強風により遭難し、53人死亡 ※『春一番』の語源となる
1861(文久1)年 佐賀藩の軍艦が勝本に入港する
1861(文久1)年 壱岐に軍用米1000俵を備える【松浦家文書】
1861(文久1)年 壱岐城代が岳の辻遠見番に大砲を設置する
1861(文久1)年 後藤正恒と吉野靹千代が『壱岐名勝図誌』を編纂し、藩主に提出する
1861(文久1)年 異国船が勝本浦に入港し、測量する【王政復古録】
1864(元治1)年 鯨組の原田氏が藩主より「永取」姓を賜う【苗字目録】
1865(慶応1)年 深江田原の津合橋を石橋に架け替える
1867(慶応3)年 水神社〔布気触〕に「慶応三年」銘の狛犬一対有り
1868(明治元)年 壱岐島は壱岐郡と石田郡の2郡が有り 〔壱岐郡は13村、石田郡は11村〕
1869(明治2)年 庄屋を「里長」、浜使を「港幹」、勝本押役所を「按撫使」、遠見番頭を「烽火司」と改称する
1869(明治2)年 平戸藩主松浦詮が版籍奉還する〔壱岐の平戸藩の壱岐領有終わる〕
1870(明治3)年 壱岐城代を「督撫使」と改称し、葉山高尚を任命する〔同年12月廃官となる〕
1870(明治3)年 喜応寺跡に壱岐郷学創設〔当時の生徒数約80名〕
1871(明治4)年 平戸藩知事に就任した松浦詮藩知事が壱岐島を巡視する
1871(明治4)年 住吉神社が国幣中社に列せらる
1871(明治4)年 廃藩置県により5藩〔長崎、平戸、島原、福江、大村〕が合併して、長崎県となる
1871(明治4)年 住吉神社境内の神池から神鏡一七面が見つかる
1872(明治5)年 壱岐郡を3大区に区分し、全島を22小区〔村〕とする
1872(明治5)年 郷ノ浦郵便所を設置する〔所長 長田惣兵衛〕
1872(明治5)年 石田、筒城、池田3村戸籍を編成する〔原戸籍の原型となる〕
1872(明治5)年 3大区にそれぞれ「区長」を置き、実務は「里正」が取り仕切る 村には「小頭」を置く
1873(明治6)年 犬狩騒動が起きる 3月18日に郷ノ浦、19日に湯之本、20日に印通寺を襲う
1873(明治6)年 3大区を廃止して、壱岐全島を第30大区の1区とする 区役所は武生水に置く
1874(明治7)年 各自で地割りが行われ土地は個人の所有となる
1847(明治7)年 諸吉小学校・武生水小学校・渡良小学校(大平寺)・可須小学校・箱崎小学校を設置する
1875(明治8)年 志原小学校〔円光寺〕を設置する
1875(明治8)年 勝本郵便局を設置する〔香椎と鯨伏所轄、局長小金丸仙三郎〕
1875(明治8)年 初山小学校、渡良小学校大島分校、立石小学校〔観世音寺、鯨伏小学校の前身〕を設置する
1875(明治8)年 石田小学校を設置する
1875(明治8)年 武生水小学校を「盈科小学校」と改称する
1875(明治8)年 可須小学校を「霞翠小学校」と改称する
1875(明治8)年 長峰小学校〔玉泉寺、沼津小学校の前身〕と半城小学校〔祥雲寺、柳田小学校の前身〕を設置する
1875(明治8)年 霞翠小学校の分舎として勝本小学校を設置する〔仮教室を聖母神社、金比羅神社、おかりど、川尻大神宮等に置く〕
1876(明治9)年 黒崎小学校〔高源院〕を設置する
1876(明治9)年 諸吉小学校芦辺分校及び諸吉小学校八幡分校を設置する
1876(明治9)年 本宮小学校〔報恩寺、のちに立石小学校の分校となる〕を設置する
1876(明治9)年 石田小学校筒城分教場を設置する
1876(明治9)年 箱崎小学校瀬戸分校を設置する
1878(明治11)年 壱岐郡・石田郡の2郡を置く 郡役所を武生水に設置する
1878(明治11)年 各村に戸長役所を設置する〔23ヶ所〕
1878(明治11)年 長崎県議会議員の定数が決定する 壱岐郡・石田郡で定員3名
1878(明治11)年 箱崎小学校新城分校を設置する〔同年10月に新城校として独立する〕
1879(明治12)年 半城小学校を「柳田小学校」と改称する
1879(明治12)年 第1回県会議員選挙が行われる〔立石傅平(武生水村)、江田庄四郎(石田村)、斎藤兵弥(本宮村)が選出〕
1880(明治13)年 印通寺郵便局を設置する〔局長 垣田精一〕
1880(明治13)年 芦辺郵便局を設置する〔局長 篠崎藤吉郎〕
1880(明治13)年 戸長役所の区域を10区〔武生水・志原・長峰・渡良・立石・箱崎・国分・可須・諸吉・石田村〕とする

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TOP> 長崎県埋蔵文化財センター・壱岐市立一支国博物館へのアクセスについて
アクセス

壱岐へのアクセス

[転載]壱岐旅行!

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ちょっと忙しくて(←言い訳です)・・これは3/12の話です。
生まれて初めて壱岐に行きました。

前日に呼子伯で、一番最初のフェリーで壱岐へ。10:00着。

いやー!歴史の宝庫ですし、観光名所も沢山ありです。
狭い島ではありますが、一日があっという間に過ぎた感じです。

今回訪問した所は・・・
●万葉公園と壱岐空港(コーヒーが飲みたくて空港に行ったけど何もありませんでした)
●原の辻遺跡(弥生時代の遺跡です、ここ出土の人面石が写真にあります)
●小弐公園(元寇時代の古戦場です)
●勝本イルカパーク(イルカが居たけど寒かった・・)
●湯の本温泉(ここは、別途ご報告しますね~!)
●猿石(これは本当に猿そっくり!ビックリしました。メイン画面です)
●住吉神社(住吉=神功なので、やはりその時代の遺跡と思われます。ここの神木も写真あり)
●鬼の足跡(海蝕によるすんごい風景でした。写真2枚)
●岳の辻展望台(壱岐を一望できる展望台です)

これだけ欲張って行けば、お昼ご飯を食べる暇も無く・・・お昼はうどんでした。
本当は壱岐牛なんて考えていたのですが、無理無理!

でも、うどんは湯の本温泉の食堂でしたが、想像以上に美味しかったです。
お店の「親子うどん?」というメニューに、反応して頼みました。
単に親子丼の具がうどんに・・・とも思ったのですが、意外や意外、
タマネギ、ねぎ、椎茸、美味しい鶏肉が沢山、卵は月見を一寸ボイル、ダシはあっさり塩味風!
500円でしたが、一寸満足でした。

夕方16:00発のフェリーで呼子へ戻ります。
今回の壱岐で一番印象に残ったのは、やはり猿石かな。
一番の残念はウニの季節では無かった事です。

転載元: キャンプと温泉

[転載]壱岐☆パート1☆

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かなり遅くなったけど、今週水曜日に職場の人と

壱岐に行ってまいりました~(・ω・)/

高速じゃなくて普通のフェリーに乗って2時間半くらいで着きます。

とりあえず船に乗ってる感じを残したいと思って一枚。

壱岐に近づくに連れて海がキレイになるのを見て、ばりばり期待(#^-^#)

着いてすぐレンタカーでウニ丼を探し求めて移動しました。

観光案内のパンフに載ってた店に行きました。平日やけど結構人多くて待たされた…

けど!!出てきたウニ丼定食は、旨かったぁぁ~(☆o☆) マジで。

まぁ、本場で食べる雰囲気とかでウマいって感じるのもあるやろうけど

あのとろける舌触りとか…忘れられん。また食べに行きたいですね~。

あ、次は壱岐牛でもいいかも(≧▽≦)ゞ

早々にこの時点でもかなり来て良かったと思いました(笑)

そしてひと息ついてメインの海へ☆☆

転載元: ☆ダルダル日記☆

[転載]壱岐よりお届けします

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訪問ありがとうございます

はじめまして。ややあって、この先ずっと壱岐で生活することになったみたいなので、壱岐での生活を、
お届けします(*^。^*)/
よく、壱岐って壱岐対馬の壱岐?って言われますけど、別々ですから・・・・
九州と韓国の間にあり、対馬よりも九州よりです。
長崎県なんですよね・・・アクセスは圧倒的に福岡が便利なんですけど・・・
夏は海水浴で賑わいます。
冬は・・・魚がおいしいです。
温泉もいっぱいありますよー。
色々なHPがありますが、観光地はさておき、もっとマニアックな?写真等アップしていきます。
ぜひ、ゲストブックに一言お願いします..

転載元: ☆鬼嫁と2匹の虎+2☆

[転載]壱岐

日本海

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日本海   

日本海の位置
日本海(にほんかい)は、西太平洋縁海で、樺太(サハリン)、北海道本州九州ユーラシア大陸大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア連邦に囲まれている。


範囲

ユーラシア大陸と樺太の間の間宮海峡(タタール海峡)、樺太と北海道の間の宗谷海峡オホーツク海と繋がっており、北海道と本州の間の津軽海峡では太平洋と、九州と対馬の間の対馬海峡東水道、対馬と韓国の間の対馬海峡東シナ海と繋がっている。
国際水路機関の定義による海上の境界は、北東ではロシア本土のSushcheva岬と樺太西岸のTuik岬とを結ぶ線、樺太南端の西能登呂岬(またはクズネツォワ岬)と北海道北端の宗谷岬(または野寒布岬)とを結ぶ線、道南恵山岬青森県尻屋崎とを結ぶ線、南東では山口県下関市村崎ノ鼻六連島北九州市八幡岬とを結ぶ線、および南西では長崎県野母崎福江島大瀬埼、韓国済州島最南端のプナム崎、全羅南道玉島珍島を結ぶ線で囲まれる海域となっており[1][2]、南西部では対馬海峡・朝鮮海峡よりも西の五島列島や韓国南部まで含まれている。しかし、一般的には九州北西部、特に長崎県西方や五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、環境省[3]気象庁[4][5]、長崎県[6]などの資料では、これらの海域は日本海には含まれなかったり、東シナ海の一部とされている。
各国の水路機関が加盟している国際水路機関(IHO:International Hydrographic Organization)が、業務の便宜のために作成したもので、法的、政治的意味を持たないものとしての範囲があり、西端を朝鮮半島南沖のJin島やOg島とする範囲が、以下のホームページで公開されている⇒日本海の範囲

日本海の範囲を示す図



日本海の呼称の由来とその範囲を教えてください。

イエズス会の宣教師マテオ・リッチが1602年に作成した古地図「坤輿万国全図」において、「日本海」の名称を使ったのが最初です。 ここでは、日本列島によって太平洋から縁海として切り離された形状のみならず、「日本海」という名称がはっきりと記載されています(マテオ・リッチは明国に永く滞在しており、坤輿万国全図は漢字で記載されています)。
その後、この海域についての呼び名として西欧の地図ではOriental Ocean、 China Sea, Korea Sea等の名前も用いられますが、西欧各国による極東地域の知識が蓄積されるにつれて、日本海の形状が正確に把握されるとともに、名称も「日本海」を意味するものに収斂していきます。 江戸時代後期になると、鎖国していた日本の周辺にも外国船が頻繁に出没するとともに、日本に対し通商を求めたり薪や水等の補給のための立ち寄りを求めました。 これに対し、幕府は外国船打ち払い令(1825年)を出して鎖国政策を維持しようとするのですが、この時代の西欧によって作成された地図では、ほとんどが日本海を意味する名称が用いられています。 また、日本でも蘭学者等により外国で出版された書籍が翻訳されて紹介されるようになり、日本海という名称が定着していきます。
この日本海について、どこまでをその範囲とするかについては、四つの海峡(対馬、津軽、宗谷及び間宮)で線引きするものをはじめ区分する目的によりいろいろな線引き方法があり確定的なものはありませんが、航海安全のため海図等の水路図誌の統一と普及等を目的として設置された「国際水路機関」が、海図等を作成する業務の便宜上“いかなる法的、政治的意味を含むものではない”として、世界の海洋と海の境界の線引きを行ったものがあります。 それによれば、日本海の範囲は北界を間宮海峡とし、南界は九州西岸から済州島をとおり朝鮮半島西岸端に引いた線で、ユーラシア大陸と日本列島に囲まれた海域としています。
北界:
ロシア本土のSushcheva岬からサハリン西岸のTuik岬(51°45′N)とを結ぶ線。
東界:
  1. サハリン南西岸Kuznetsova 岬(46°02′40″N, 141°55′10″E)と、北海道北西端の野寒布岬(45°26′50″N, 141°39′E)とを結ぶ線。
  2. 野寒布岬から南西方に北海道西岸に沿い、北海道南岸の恵山岬(41°48′12″N, 141°11′24″E)の東端と結ぶ線。
  3. 恵山岬の南東方、本州の北東端尻屋埼(41°25′43″N, 141°27′54″E)と結ぶ線。
  4. 尻屋埼から南西方に本州の西岸に沿い、本州北西岸の村崎鼻(34°01′18″N, 130°54′24″E)と結ぶ線。
  5. 村崎鼻から南西方に六連島(33°58′20″N、 130&176;52′E )と馬島(33°58′N, 130°51′15″E)をとおり、九州北岸八幡岬(33°55′52″N, 130°43′50″E)を結び、八幡岬から南西方向に九州西岸に沿い野母埼(32°34′N, 129°44′30″E)を結ぶ線。
南界:
  1. 野母埼から西方に、福江島(32°34″15″N, 128°46′30″E)の笠山鼻南端と結ぶ線。
  2. 福江島の南端から北西方向、この島の南西端大瀬埼(32°36′35″N, 128°36′30″E)の南端と結ぶ線。
  3. 大瀬埼から北西方向、済州島の南端Punam岬(33°11′30″N, 126°17′30″E)を結ぶ線。
  4. Punam岬から北西方向に、この島の西端(33°17′15″N, 126°09′45″E)を結ぶ線。
  5. 済州島の西端から北西方向にKan Rock(34°12′25″N、 125°48′E)とOg島(34°21′40″N, 126°00′50″E)の北端とJin島(34°25′10″N, 126°05′25″E)の西端を結ぶ線。
  6. Jin島の西端から北東に、この島の東岸に沿って北端(34°35′20″N, 126°05′25″E)を結ぶ線。
  7. Jin島の北端から北東に、朝鮮半島の南西岸の地点(34°35′50″N, 126°16′50″E)と結ぶ線。
西界:
アジア沿岸、朝鮮半島の南西岸の地点(34°35′50″N, 126°16′50″E)から北東に、ロシア沿岸 Belkina岬(45°49′15″N, 137°41′30″E)と結ぶ線。
参考文献
  • 秋月俊幸: 「日本北辺の探検と地図の歴史」
  • 海野一隆: 「地図に見る日本」
  • OAG・ドイツ東洋文化研究協会: 「西洋人の描いた日本地図」
  • 京都大学付属図書館: 「日本の西方・日本の北方」
  • KRUSENSTERN:「VOYAGE ROUND THE WORLD IN THE YEARS 1803, 1804, 1805 AND 1806」
  • 菱山剛秀、長岡正利: 「『日本海』の呼称の変遷について」
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日本は領海の基線に直線基線を採用することとなったと聞きましたが、その直線基線について教えて下さい。

平成8年7月20日「国連海洋条約」が発効し、これに伴い領海法の改正が行われ領海等の幅を測定する基線として新たに直線基線を用いることができるようになり、平成9年1月1日から施行されました。 これまで領海の基線は基本的には海水が一番引いたところ(低潮線)でしたが、条約によって海岸線が著しく折れ曲がっているとか、海岸に沿って非常に近い距離に一連の島がある場所では直線基線が採用できるようになり、政令でその基点の経度・緯度が定められました。

直線基線は領海の範囲を測定する場合だけではなく、それに続く12海里の接続水域、排他的経済水域や大陸棚の幅を測定する際の基点となる重要な線でこの基線を採用することにより領海は基線から外側へ12海里まで広がり、基線の内側の内水を併せこれら全ての水域に我が国の主権が及ぶこととなりました。

ちなみに、この直線基線は全国で162本が定められています。

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名称

「日本海」と最初に命名したのは、ロシア海軍のクルーゼンシュテルン提督(1770-1846)である[1][7]英語ではSea of JapanまたはJapan Seaラテン語ではMare Iaponicum(マレ・ヤポーニクム)。フランス語ではmer du Japonドイツ語ではJapanisches Meerロシア語ではЯпонское мореであり、いずれも『日本海』を意味する[8]

現在、国連及び国際的な海図の大半は「日本海」(もしくはその訳語)という表記を使用しており、国際的にこれが一般的である。海図上の名称の基準になっている国際水路機関(IHO)の「大洋と海の境界」(1953年)においても、Japan Sea の名称を用いている[9][10]
「日本海」は17世紀初頭の清の世界地図坤輿万国全図や明治以前発行の欧米の地図に既に記載されている。


自然

富山県魚津市本新から臨む富山湾

 平均水深は1,752m、最も深い地点で3,742mで、表面積は978,000 km²である。中央の大和堆(水深約400m)を挟んで主に3つの深い海盆があり北に日本海盆(水深およそ3,000m)、南東にやや浅い大和海盆、南西に対馬海盆(ともに水深およそ2500m)と呼ばれている。また、富山湾沖から水深1,000mにも達する富山深海長谷が約750kmにわたって延びている(富山平野砺波平野はその延長である)。大陸棚が東部沿岸に広がっているが、西部、特に朝鮮半島沿いは非常に狭く、幅は30km程度である。

 海峡の水深が浅いため外海との海水の交換は少なく、唯一対馬海峡から対馬海流が流入するのみである。暖流の流入は日本の温暖な気候に影響を与えている。北部には寒流のリマン海流が流れているが、地質調査からかつて親潮が流れていた事が明かとなった。

 深層には太平洋とは全く性質を異にする日本海固有水と呼ばれる、寒冷で溶存酸素に富んだ海水が分布する。
北方と南西海域は豊富な水産資源が得られ、鉱物資源天然ガス、わずかながら石油そしてメタンハイドレートの存在など経済的にも重要な海域とされる。
 日本列島は4000万年前まで大陸の一部であったが、4000万年前頃から2000万年前にかけて大陸から分離し日本海の原型が形成され、その後拡大が進み数百万年前にはほぼ現在の配置になった。対馬海峡はまだユーラシア大陸と陸続きで、対馬海峡が形成されたのは第四紀になってからと言われている。その後氷期間氷期の世界的な海水準の変化によって、水深130m程度の浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返していた。その為、堆積物の岩相や同位体の構成比、元素濃度は劇的に変化をしている[11]

◎「日本海の海底地形の特徴」って?
 日本海の海底地形は、中央に大和堆・北大和堆があって中北部の日本海盆、南西部の対馬海盆及び南東部の大和海盆を分けている。

日本海の海底地形図


◎「大和海嶺」って?
 日本海は水深がおよそ3000メートル、海底の地形は平らな盆地状になっていますが、そのほぼ中央部に大和海嶺と呼ばれる、海底からの高さが2000メートル以上にもなる山脈があります。この海嶺は九州ほどの大きさがあり、大きく分けると二つの部分に分かれています。一つは大和堆で最も浅い部分が水深236メートル、そしてその北西側に水深397メートルの北大和堆があります。両方の堆の大きさはいずれも、幅数10キロメートル、長さ200キロメートル位で南西から北東方向に細長くつらなっています。
 大和堆は水産講習所の天鴎丸が初めて発見したのですが、その後1926年に軍艦大和が再度精密な測量をしたことから大和堆と命名されました。もう一方の北大和堆の方は海洋気象台の春風丸が1930年に発見し春風堆と命名されましたが、同じく軍艦大和によって1年後に再び測量されて北大和堆と改名されました。
 この堆付近の海流は海底地形の影響を受けて複雑で、蛇行したり渦状の流れができたりします。これにともなってプランクトンなどが豊富で、日本海有数の漁場となっています。

樺太から日本列島沿岸に沿って海嶺やマグニチュード7クラスの地震の多発域が帯状に連なっており、これを日本海東縁変動帯と呼ぶ。日本海東縁変動帯では、ネフチェゴルスク地震、北海道南西沖地震日本海中部地震‎庄内沖地震新潟地震新潟県中越地震新潟県中越沖地震などが発生している[12][13]

生態系と漁業

 太平洋より種族数が少なく固有種も乏しいことから、日本海の形成時代はあまり古くないといわれている。カニなどの沿岸性底動物は一般に豊富で、能登半島を境にしてその動物相にやや変化がみられる。太平洋岸に比べ、対馬暖流の影響で南方系種族の北限がはるか北方にのびている。例を挙げると、サザエは日本海側では青森でも漁獲されるのに対し太平洋側では関東以北には現れない。 プランクトンは沿海沖の冷水域および陸棚上に多く、中央部に乏しい。種類は対馬暖流系の暖水種と、リマン寒流系の冷水種に分けられるが、両者の分布は水塊分布ほど明確に区分されず、混在海域が広い。北方系の魚類としては、ニシンサケマスタラなどがあり、南方系の魚類としてはやや温帯性に属するブリが多いが、代表的な暖水魚であるカツオマグロなども地球温暖化による海水温の上昇により西側が産卵地域となり漁獲量が増加しているが乱獲が問題となっている。魚類としてもっと重要なものは温帯性のマダイマイワシサバカレイなどである。これらの分布を太平洋と比較すると、次のような特徴がある。
  • 南方系魚類の回遊範囲は太平洋岸より北上し、北方系魚類の境界ははるかに南下している。
  • カツオ、マグロが少ないので、日本海中央のサバ延縄漁業以外に遠洋漁業が発達しない。
  • 表層水は夏に高温になるが、わずか下層では寒冷となるため、表層でイワシ、サバ、タイなど温暖水魚がとれ、深海や海底ではタチウオ、タラなどの冷水魚がとれる。
また古来からクジラの回遊経路として知られ、かつて沿岸には多数の捕鯨漁村が存在した。これらのほとんどは捕鯨により激減したため今では稀にしか見られないが、現在でも多数のイルカ類や、少数だがヒゲクジラでは珍しく大規模な回遊を行わないミンククジラナガスクジラの個体群も存在する。

◎「日本海の海流(対馬暖流)の特徴」って?
 日本海に流れ込んだ対馬暖流は一般的には本州沿岸(第一分枝)、沖合(第二分枝)及び朝鮮暖流系(第三分枝)の三分枝に流れている説と、一本の流れが蛇行しながら流れるという蛇行説がありますが、現在のところ定説はありません。

日本海の対馬暖流の図



海の環境破壊

海洋汚染

 漂着物として、主に韓国、中国など日本海を航行する貨物船漁船、また朝鮮半島や日本本土から不法投棄されるゴミが海流にのって、対馬や日本海沿岸に漂着する。その量は膨大で沿岸地方自治体の財政を圧迫するほどである。
 さらに、ロシアなどが遺棄していた放射性物質は深海を汚染しているおそれが大きく、カニ深海魚の汚染に不安感がもたれている。特に経済が悪化していた当時のロシアでは太平洋艦隊の古い原子力潜水艦原子炉を日本海公海上の海溝に投棄していたことが問題とされている[14]。 韓国政府は68年から4年間、約45トンの放射性廃棄物を日本海の鬱陵島(ウルルンド)から南に12海里離れた水深約2200メートル地点に投棄した。 [15]
また、冬季の天候の悪化時に起きる海難事故では、ナホトカ号重油流出事故のように大量の重油で沿岸部を汚染する事件が多発している。中国、ロシア、韓国船の中には船内を海水で洗浄した廃油を海に投棄する船が後をたたない。主に冬から春にかけて、航行中の船から材木などが大量に流出し航行に危険をもたらす事件もおこっている。

磯やけ

 沿岸部の岩礁地帯の植物が死滅して、焼いたサザエの殻のように、水面下の岩についた貝等の屍骸で磯全体が広範囲にわたって白く焼けたように見えることから、この呼び名がある。 日本海沿岸部全体で観察される現象で、沿岸部での魚の激減、えさの減少から沿岸部で産卵されて育つ人間に有用な魚の稚魚の成長が難しくなることなど、漁業全体への深刻な影響が懸念される。 川の水が流入する直近の場所では少ないことから、海水の変化が原因と考えられている。
 海水の変化の理由として、有力な説は船底塗料等の中に含まれる環境ホルモンによる海洋汚染、流入する河川の治水による有機物の減少、最新の説には、温暖化による海水の有機物の減少(貧栄養化現象、栄養減化現象)をあげる説等があるが、原因は不明である。 なお、現代の磯を見慣れている人には「磯焼け」が常態であるのでこの言葉に実感はないが、半世紀前の人々が普通に見た磯(水中)は、岩などが見えないほど海草が生い茂っていたのである。

観光

能登金剛東尋坊などの荒々しい海の光景や、天橋立鳥取砂丘千里浜海岸、丹後の鳴き砂など海と砂の作る不思議な海岸の光景が有名である。ほかにも多くの風光明媚な観光地や天然記念物が散在し、北海道から対馬まで、観光資源としての価値も高い。

国立公園

日本海に面した地域を指定した国立公園には利尻礼文サロベツ国立公園山陰海岸国立公園大山隠岐国立公園の3公園がある。

国定公園

航路

多数のフェリー航路が設定されている。
また、上海から北米への航路は、日本海に入った後津軽海峡を通り抜けるように太平洋へと向かう。この航路を採用する期間は夏季のみ。その理由は台風を避ける為、黒潮など激しい潮の流れを避ける為の2つである。

隣接する国


渤海使  8・9世紀の東アジアと日本海  日渤交渉と北陸道

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渤海使

   
渤海使(ぼっかいし)は、渤海より日本を訪問した使節である。728年から922年までの間に34回(このほかによる派遣が1度)の使節が記録に残っている。

概要

  渤海698年大祚栄により建国されたが、大武芸の時代になると新羅と外交的に対立するようになり、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。初期には軍事同盟としての色彩が強い使節であり、また日本側もこれを朝貢であると捉え、使節を非常に厚遇している。

 しかし大欽茂の時代になり、唐との融和が図られる時代になると軍事的な意味合いは薄れ、もっぱら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。特に問題となったのは朝貢貿易の形態を取ったことで、これにより渤海からの貢物に対して日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、渤海に多大な利益をもたらした。日本側は、朝廷の徴税能力が衰え、使節供応と回賜のための経費が重荷となった後は、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えたが、その交流は渤海滅亡まで継続した。
唐渤関係の安定化に伴い、日唐間の交通の仲介として機能した。

貿易品目

 8世紀後半以降はもっぱら北方産の獣皮と日本から繊維製品や金・水銀の交易が主目的。


イメージ 1

金沢くらしの博物館にて

遣渤海使

   
遣渤海使(けんぼっかいし)とは、日本渤海に派遣した使節であり、728年から811年までの間に14回(うち1回は渤海経由の遣唐使。このほか操舵手等の派遣が1回。)の使節が記録に残っている。

背景概要

続日本紀』によると、720年養老4年)渡嶋津軽津司[1]諸君鞍男(もろきみのくらお)ら六人を風俗視察のため靺鞨(まっかつ)国に派遣したとある。この靺鞨国については、津田左右吉をはじめ水本浩典熊田亮介石井正敏などが、北海道北部の粛慎(あしはせ)を指すとしているが、鳥山喜一酒寄雅志森田悌関口明などが渤海のことであるとしており定説はない。後説によると、720年の遣使が契機となり渤海の遣日本使が実現した[2]ことになるが、反論[3]もある。

 698年高王により建国された渤海であるが、武王の時代になると新羅と外交的に対立するようになり、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。これは軍事同盟としての色彩が強い使節であり、また日本側も渤海が天皇の徳化により来朝したと捉え、渤海の前身であるとされた高句麗の復興と理解し、使節を非常に厚遇し、翌年早々に遣渤海使を派遣している。一般的には第1回の遣渤海使はこのときの遣使を指す。

 新羅との関係が特に緊張していた期間(758年-763年)には、ほぼ毎年使者が往来し、759年天平宝字3年)には恵美押勝が渤海の要請によるとも言われるが軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画を立てた。この遠征は後の孝謙上皇と押勝との不和や渤海側の事情の変化等により中止されたが、文王が唐との融和を図る時代になると軍事的な意味合いは薄れ、専ら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。

 この交流は朝貢貿易の形態を取ったため、渤海からの貢物に対して、日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、多大な利益を渤海にもたらした反面、日本側の財政を圧迫した。そのため、使節供応と回賜のための経費が無視できない規模になった後は、使節来朝に制限を加え、日本側からの遣使は中断した。しかし渤海側からの遣使は渤海滅亡まで継続した。

 『延喜式』大蔵省式によると、遣渤海使の一行は、大使、判官、録事、訳語、主神、医師、陰陽師、史生、船師、射手、卜部、雑使、船工、柂師、人、挟杪、水手から構成される。


渤海 (国)    

渤海
渤海
高句麗698年 - 926年遼
高麗
後渤海
渤海の位置
渤海の最大領域
首都
上京竜泉府ほか
698 - 718 907 - 928
大祚栄
大諲譔
変遷
建国滅亡
698年
928年
 渤海(ぼっかい、698年[1] - 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれ、統一新羅の8倍、高句麗の4倍の領土を誇った[要出典]が、最後は契丹)によって滅ぼされた。
新唐書』に、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に従属していた、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)と記す。
旧唐書』と『新唐書』では渤海靺鞨の指導者大祚栄に関する記述は異なる。『旧唐書』では渤海靺鞨の大祚栄は出自は高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)としているが、『新唐書』では粟末靺鞨の出としている。

『大金国史』には、女直女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。

  渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。
渤海」の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。
 以下、本項では歴史上に存在した国家としての「渤海国」を扱う。民族としての「渤海民族」については、別項渤海人を参照。


歴史

満州の歴史
箕子朝鮮東胡濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡遼東郡
遼西郡遼東郡
前漢遼西郡遼東郡衛氏朝鮮匈奴
漢四郡夫余
後漢遼西郡烏桓鮮卑挹婁
遼東郡高句麗
玄菟郡
昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋平州
慕容部宇文部
前燕平州
前秦平州
後燕平州
北燕
北魏営州契丹庫莫奚室韋
東魏営州勿吉
北斉営州
北周営州
柳城郡靺鞨
燕郡
遼西郡
営州松漠都督府饒楽都督府室韋都督府安東都護府渤海国黒水都督府
五代十国営州契丹渤海国
上京道 東丹女真
中京道定安
東京道
東京路
上京路
東遼大真国
遼陽行省
遼東都司奴児干都指揮使司
建州女真海西女真野人女真
満州
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
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中国朝鮮関係史
Portal:中国
  690年に即位した武則天が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、唐によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で「渤海郡王」に冊封された。

  2代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。また唐・新羅黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、毛皮などが交易された。この交流は渤海滅亡まで続き、計34回使者が行き来している(渤海使遣渤海使)。
  大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣(渤海時代を通じて132回)し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。
  この他旧国(東牟山)から上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

 このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華が即位するが短命に終わり、続いて大嵩が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。
  大嵩は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩没後は大元瑜大言義大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して二十数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

  国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。唐は安史の乱後の混乱と地方に対する統制の弛緩のなかで周辺諸国に対する支配体制も弱体化していき、黒水都督府を9世紀初頭に解体した。大仁秀はその政治的空白を埋めるように、拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府などの府州を設置した。
  また黒水部も影響下に入り、黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった、その状態は渤海の滅亡直前まで続き、渤海は「海東の盛国」と称されるようになった。

  その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃大玄錫の代まで保持されていた。

  10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国された契丹国(のちの遼)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡、契丹は故地に東丹国を設置して支配した。渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。

  また東丹国の設置と縮小に伴い、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、契丹(遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、その都度多くは遼の保有する遼西や遼東の各地域へ移住させられ、または残留し、一部は高麗へ亡命し、一部は故地の北方へ戻った。黒水靺鞨(女真)が統合を果たしが建てた王朝(1115年1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼしたの代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満洲として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消した。

西の正倉院 『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王が日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は

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西の正倉院

   
西の正倉院
西の正倉院(にしのしょうそういん)は、宮崎県東臼杵郡美郷町にある正倉院のレプリカ建築。門外不出とされていた奈良正倉院原図を元に樹齢400~500年の木曾天然檜を使って忠実に再建したもので、正倉院内部を見学することもできる[1]

概要

正倉院南倉の銅鏡唐花六花鏡と同一品が同町に保管されていることから計画され、宮内庁が所蔵する正倉院図を元に、細部まで忠実に再現されている。百済王伝説との関係を指摘される祭師走祭りの紹介と、銅鏡の展示などが行われている。1996年完成。

参考文献

  • 宮崎県観光パンフレット

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神門神社

   
神門神社 所在地 位置 主祭神社格等 創建 本殿の様式例祭
Mikado Shrine01.jpg
本殿
宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門69-2
北緯32度23分9.6秒
東経131度19分51.4秒
座標: 北緯32度23分9.6秒 東経131度19分51.4秒
大山祇神、禎嘉王ほか
郷社
伝・養老2年(718年)
七間社流造
秋季例祭(10月17日)
師走祭り(旧暦12月)
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神門神社(みかどじんじゃ)は、宮崎県東臼杵郡美郷町にある神社。祭神は大山祇神百済の禎嘉王、倉稲魂命、品陀和気命(応神天皇)ほか。本殿は国の重要文化財に指定されている。



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概要

養老2年(718年)の創建と伝えられる。
『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は神門の地に落ち着き、福智王は現在の木城町に住んだとされる。「益見太郎」または「益シ見ル者」の援助があり、父子はこの地で崇敬され、死後は神として祀られたという(詳細は後述)。
三国史記』によると、756年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後に災害が続き民が飢えたことが記されている[1]
日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九月四日(759年)条に、以下のように記されている[2]
「近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。
彼らは租税や労役の苦しみを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。
その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。
それらの人々に再三質問して、帰国したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように。」

4つの異なる伝承

以下の四書において、伝承が異なる。
①『神門神社縁起』(宝暦五年六月,源光章)[3]
②『比木大明神縁起』(宝暦五年七月七日,源光章)[4]
③『日向旧跡見聞録』(宝永九年閏七月,笠原道順)[5]
④『筑紫日記』寛政四年閏二月十九日条[6]
①②は甲斐州山梨郡山王社神主である源光章によって作成されたものである。
それぞれ前半部分は佐土原町上田島にある仏日山大光寺拙堂禅師が持ち込んだ『比木祠旧記』の写しで、後半は源光章による考証である。
『比木祠旧記』文中では、天平勝宝八歳を「天平勝宝八年」と誤記している。 また、文中には1580年代に開始された[7]唐津焼が登場する[8]
①では、源光章による考証部分で「孝謙天皇時、百済王子金泰廉等朝貢事」と百済と新羅を混同している(②では「新羅」と修正されている)[9]
『比木祠旧記』の内容も、①②間で異なる。
  • ①は送り仮名を漢字表記。②ではカタカナ表記(例:「与利」=「ヨリ」)
  • ①では「貞嘉帝」、②では「禎嘉王」
  • ①では「和国は神国である」という貞嘉帝の言葉がある
  • ②では、日向国に着くまでの道筋が簡単になっている。筑紫へ行ったこと、風に流されたことを書いていない
  • ①では「益見太郎」が固有名詞、②では「益シ見ル者」と固有名詞になっていない(ただし『宮崎県史 別編 神話伝承資料』収録の天保三年写本では「益見ナル者」に改竄されている)
  • ①では貞嘉帝の皇后の名前は無く、単に鴫野村に葬ったとある
  • ②には、若御子宮の話がある。また、舎人七人の話がある
  • ②には、王次子(華智王)の名前が書かれていない
③は笠原道順が現地古老に取材して実見するところをまとめたものである[10]
本書では百済関連の伝承は語られない。比木神社に祭られているのは福智王とせず、「異国の大将軍」であると地元民は述べる。
著者はそれを誤りとし、祭神である大己貴命が、国譲りの後にこの地で蟄居したためであろうと論じる。
神輿の巡行については、大己貴命が独り日本国に留まって経営を続けたことに由来するという[11]
④は高山彦九郎の巡遊日記である。神門神社の祭神について、「百済王とも源頼朝の子供ともいう[12]」と述べる。
王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っている。神社の近くの国道446号線沿いに「百済王貞嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられている。標柱の南約50メートルほどのところの畑の中に、封土の大部分が削平された塚ノ原古墳がある。本殿の屋根裏には、千点以上の鉄鉾や鉄鏃などの武器類が保管されており、地域の武器庫とのかかわりが考えられる。さらに、須恵器の大甕や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。

文化財

重要文化財
  • 本殿
寛文元年(1661年)に建立された七間社流造の社殿。現在は社殿保護のため被い屋根がされている。平成12年(2000年)12月4日指定。
国選択無形民俗文化財
  • 日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭り
毎年旧暦の12月(例年新暦の1月最終週頃)に行われる1,000年の伝統を誇る祭りである。木城町比木神社に祀られている福智王の御神体が、90kmの道程を旅して神門神社に祀られている父の禎嘉王に対面する祭礼で3日間行われる。以前は全行程徒歩で行われていたため10日かけて行われていた。対面した初日から2日目にかけては神楽が舞われる。3日目の別れの儀式では皆で顔にかまどの墨を塗る「へぐろ塗り」が行われる。平成3年(1991年1月25日選択。
宮崎県文化財
  • 銅鏡33面
古墳時代の鏡4面、奈良時代の唐式鏡17面、平安時代の鏡3面、室町時代以降の鏡9面の計33面。昭和40年(1965年8月17日指定。現在は「西の正倉院」に収蔵されている。
  • 板絵観音菩薩正体1面
応永8年(1401年)僧侶の比丘長存が描いた。昭和40年(1965年)8月17日指定。


☆『日本書紀』推古天皇三十一年七月条 百済は是(これ)多反覆(かへかへ)しき国なり。道路(みち)の間(あひだ)すらも尚(なほ)詐(あざむ)く。凡(おほよ)そ彼(そ)の請(まう)す所、皆(みな)非(よくもあら)ず。
訳):百済は、嘘の多い国だ。人を騙す。

百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く。凡そ彼の請す所、皆非ず。

百済は裏切りの多い国だ。道の間すら尚も欺く。彼らの言葉は信用できない

☆東国通鑑巻六、唐貞観十六年条 
「百済反覆之国、不可信也。」
訳):百済は、裏切りの国だ。信じる事は出来ない。


☆『朝鮮民族は極めて猜疑心が強く、恨み言を常に抱き、陰謀詐術を得意としている。
 上国にはおもねるが下国と見なすと非礼を重ねる。(事大主義)』
中国正史「宋書」

☆『日本書紀』推古天皇三十一年七月条 

百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く。
意訳):韓国は裏切りと嘘の国だ。

☆東国通鑑巻六、唐貞観十六年条 
「百済反覆之国、不可信也。」
意訳):韓国は、裏切りの国だ。信じる事は出来ない。


百済

   
百済
百濟
馬韓346年? - 660年新羅
公用語首都
百済語
(古代朝鮮語のひとつ)
慰礼城
(前18–475)
熊津
(476–538)

(538–660)
346 - 375 641 - 660
近肖古王
義慈王
変遷
建国(『三国史記』による)近肖古王の即位仏教導入泗沘陥落
前18年
346年
諸説あり
660年
百済 各種表記ハングル漢字発音日本語読み:ローマ字
백제
百濟
ペクチェ
くだら、ひゃくさい
Baekje
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三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で見られる範囲(時期は375年頃)、右は日本の教科書で見られる範囲(時期は4 - 5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で見られる範囲(時期は375年頃)、右は日本の教科書で見られる範囲(時期は4 - 5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
三国時代の朝鮮半島
左は韓国の教科書で見られる範囲(時期は375年頃)、右は日本の教科書で見られる範囲(時期は4 - 5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
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百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家346年?[注釈 1] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援したによって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

高句麗と百済の戦争

  漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。
369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[2]
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。
しかし、その後は高句麗の好太王長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。

  高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。

中期:熊津時代(475–538年)

 王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。

南朝・倭国との外交関係

 東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。

新羅の台頭と遷都

 しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる[誰?]

後期:泗沘時代(538–660年)

新羅との対立

聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。

倭国・高句麗との同盟

 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。

 新羅の女王はしきりにへ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。

[転載]『神武天皇』(その1)

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       今からおよそ2000年の昔。神武天皇は日本国天皇家の始祖として、琉球の大東(うふあ
      がり)に立たれました。この事は私たち琉球神開がその活動の中で神武天皇ご自身のお姿
      を拝する事があり、その際にご自身のお言葉から教えられたものです。歴史上、また考古
      学上等で諸説紛々たるものがありますが、神武天皇ご自身のお言葉からの事として解明の
      一助となれば良いかと思います。

       琉球の歴史上ではこの時代を『天帝子世』と呼びます。
       今、日本神話の神々とされている方々が、イザナギ・イザナミの尊以降、すべて琉球を
      元地とされて来た事を述べて来ました。またイザナギ・イザナミの尊以前の時代にも琉球
      には大きな先祖の神がおられた事も明かして来ました。

       時を経て行くほどに解明の資料は揃い、諸説紛々の状況が収束を見て行く訳ですが、こ
      の時代はまだまだ「神話」の域を出ないものであります。しかし私たちは前述の通り、霊
      界の方々との心合わせを通して今は亡き方々の魂の声を聞く事が出来、そこから明かされ
      る事が歴史の解明につながる事を望むものであります。

       神武天皇は琉球大東にお生まれになり、その後現在の伊平屋島に渡られました。
       現在、観光地にもなっている伊平屋島の「クマヤー洞窟」は、神武天皇の言わば「仕事
      場」であり、この地で初代天皇として即位されたのか、或いはこの地からヤマトへの「東
      征」を始められたのかは、まだ定かではありません。

       この事から日本皇室の先祖は琉球から立たれたという事になり、明治の琉球処分の直後、
      政府が「琉球の先史の研究を固く禁ずる」とした理由が見えて来るのです。新都東京を中
      心に中央集権、絶対主義国家を確立する為には、「集権」「絶対」の対象である天皇家の
      元地が、遥か南方の小島にある等とは天地が逆さまになっても言えるものではなかったの
      でしょう。

       天皇家の始祖が琉球に立たれていた事を証する事実はいくつもあります。
       今、そのすべてをここで明らかにする事が適当か否かは私たちにも判断し兼ねるものが
      あり、この後は過去の諸説について、或いは琉球と神武天皇の関わり等について述べて行
      きたいと思います。

                                      琉球神開 歴史の扉
                                        担当:柳田邦男

      琉球神開のホームページ
        << http://www.ryucom.ne.jp/users/sinkai/>>
      琉球神開公式ブログ『心の足跡』
        << http://blogs.yahoo.co.jp/rqkabayama>>
      琉球神開『千一夜』(シンカのblogです)
        << http://blogs.yahoo.co.jp/izhikari>>

転載元: 琉球神開『歴史の扉』

[転載]御天長老(うてぃんちょうろう)が立つ

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       昨年10月の末、琉球神開は大きな神様の声に導かれて天願方面に向かいました。いつも
      の十二支廻りの御拝みではなく、特別な意味合いの御拝みでした。場所は残念ながら詳し
      く述べる事は出来ないので、ここでは「天願の御嶽」としておきましょう。うるま市天願
      にあることだけは確かです。

       ここで私たちは『御天長老』を起こし上げする事が出来ました。これまで光を与えても
      らう事がなく、御嶽の中に眠っておられた御天長老に、金城先生からパワーと光が与えら
      れ、その大きなお役と共に御天長老が立ち上がったのでした。そして合わせてそのウナジ
      ャラ(妻)である『御天阿母(あむ)長老』もそこで起こし上げる事が出来ました。

       琉球は昔から神の国、『神国』と言われています。
       御天長老はこの「神国琉球」を象徴する大きな神様の一人であるのです。しかし神様は
      まだ上に更に大きな神様がいらっしゃる事が分かっています。今はまだ詳しくは分からな
      いのですが、実はこの御天長老はその「更に大きな神様」の使いである事を、この時教え
      られたのでした。

       天願の御嶽で御天長老から降ろされたメッセージです。
         「私は神の使いとして御天長老を名乗っている。金城義明師とは昔から縁が
          あって共に心の中で歩んできた。御嶽信仰の道を守って来たのであるが、
          今は崇める人もなく、大切なものを見失ってしまっている。この失われた
          心を取り戻す事は我々の大きな目標なのである。神の心に沿って歩んで行
          く事が最も重要な事なのだ」

       沖縄の人々の心、今のままではいけない。失われた大切なものを取り戻す努力、勤めが
      今から必要になるのです。そしてその勤めを神の心に沿って行なっていく事が重要な事と
      なります。その為に古くから琉球の人々に根付いてきた御嶽信仰の道を復活させ、人々の
      心の柱となってきた先祖崇拝の心を蘇らせて行かねばならないのです。

       御天長老、御天阿母長老。今からおよそ5000年前の時代の神様であります。

       ※御天長老・御天阿母長老、それに前回ご紹介した「高砂の尉と姥」は、その元地で
        ある琉球に約5000年前に立たれたのですが、これらの神様はその意識を天上界で縦
        横に巡らせる事が出来ます。従ってこの時代に限らず、この後幾多の場面でその意
        識が現れてメッセージを降ろして来られると予想されます。

       ※「高砂の尉と姥」は今後、愛称の意も込めて「高砂のおじいちゃん、おばあちゃん」
        と呼ぶ事にします。

                                      琉球神開 歴史の扉
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転載元: 琉球神開『歴史の扉』

[転載]「大東(うふあがり)」について

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http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-42-64/rqugandokoro/folder/244047/61/1108061/img_0?20060912224211

       琉球最初の神が浜比嘉に降りられたということから、琉球にとって「東方」
      (あがりかた)は重要な意味を持つようになります。それはその後の広がりと
      言ったものが、すべてこの「東方」を起点として行くからなのです。

       浜比嘉を起点として、藪地・勝連・平敷屋、そして平安座・宮城・伊計と言
      った島々。これらの地を元地とする多くの神々がおられます。
       また後々の歴史の中でも、これらの地域は重要な働きをすることになります。
       
       琉球の歴史の中で、この東方を押し込んだ人々がいます。
       詳しいことはそれぞれの時代の項で展開して行きましょう。
       ただ、東方を押し込んだ人々は大きな罪を「因縁」として背負うことになり
      彼らの多くの子孫に対して、未だに影響を及ぼしている事例もあるのです。
       それほどこの「東方」は大きな意味を持っているのです。
       『大東(うふあがり)』と呼ばれる所以はこういうところにあります。

                                     琉球神開『歴史の扉』
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転載元: 琉球神開『歴史の扉』

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