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遣唐使の停止後の日本の外交・貿易

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遣唐使の廃止[編集]

では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣洛陽長安を陥落させ、(880–84年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。
このため遣唐使は、寛平6年(894年)の派遣が遣唐大使菅原道真による建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」[12]により停止された。この停止は直ちに中止を意味するものではなく、道真ら遣唐使予定者も引き続き遣唐使の職位を帯びていた。「請令諸公卿議定遣唐使進止状」は唐在住留学僧中瓘の唐の国情情報に拠っている。内容の概要は以下
  1. 中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく、既に日本と唐の交流は停止している。
  2. 過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしており、国家有為の人材を失う可能性が高い。
  3. 中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。

更に、当時の日本の対唐観の変化として、「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成[13]」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。
しかし、昌泰の変によって道真が左遷されて大使を失い、ついで延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした[14]

遣唐使の停止後の日本の外交・貿易

遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と唐やなどの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける[15][16])を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定[17]の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える[18]
だが、遣唐使の停止以後も、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかった[19]ため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った[20]。とは言え、摂関期院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる[18][16]
また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている[21]。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国から輸入した色糸が必要不可欠であった。


既ニ本涯ヲ辞ス

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仏道修行

 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した[7]。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。しかし吉野金峰山四国石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。

 ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。
 このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのはだけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。

 空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では、延暦23年(804年)、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。

入唐求法

  延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)としてに渡る。入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。

第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。

 同年5月12日難波津を出航、博多を経由し7月6日肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。

 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している(風信帖#入唐を参照)。同年11月3日長安入りを許され、12月23日に長安に入った。

 永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[8]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

 そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。

 途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開たため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[9]

虚しく往きて実ちて帰る

 「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。

 大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。

 空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。

 空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。

大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。


大宝寺(だいほうじ)は、長崎県五島市玉之浦町にある高野山真言宗の寺院である。
福江島の南西端、遣唐使が唐へ向かう際の最終寄港地であった玉之浦町にある。701年大宝元年)の創建と伝えられ、五島では最も古い歴史を持つ寺である。
遣唐使に随行してへ留学した空海が帰朝途次に立ち寄り、真言秘法を修したといわれる。
境内にある梵鐘応安8年(1375年)につくられたもので豊前小倉の鋳物師藤原顕宗の作。長崎県有形文化財に指定されている。

明星院 (五島市)

   
明星院 所在地 位置 宗旨 宗派 本尊 正式名 札所等 文化財
Gotoh fukue myohjohin02.jpg
五島市吉田町1905番地
北緯32度40分57.8秒
東経128度49分19.5秒
座標: 北緯32度40分57.8秒 東経128度49分19.5秒
真言宗
高野山真言宗
虚空蔵菩薩
明星院
五島八十八カ所霊場第一番札所
銅造如来立像
本堂
木造阿弥陀如来立像
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明星院(みょうじょういん)は、長崎県五島市にある高野山真言宗の仏教寺院。五島の真言宗本山
本尊は虚空蔵菩薩。五島八十八カ所霊場第一番札所。本尊は秘仏とされており容易に見る事はできない。

歴史

明星院の名は弘法大師空海により命名されたと伝えられている。 中国から帰った空海が明星院に虚空蔵菩薩が安置してあると聞き赴き、虚空蔵求聞持法にて真言「ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を100万回唱え終えた日の未明、明けの明星(火星)から凄まじい光が差すのをのを見て「中国で収めた密教が今後の日本の済世利民に役立つ事の仏の証明を頂いた」として大変お喜びになり、この寺を「明星院」と名づけたという。
五島では最も古くからある寺院で空海により真言宗へ改宗し、五島列島の大半を治めた福江藩五島氏代々の祈願寺とされ栄えた。

寺院

 注目すべきは、本堂の入り口上部の飾り彫りが龍や雲などではなく「象」である事。空海、最澄が帰国する前から存在している寺のためインド仏教の影響を伺える。
 本堂の天井には様々な仏教画が格天井に描かれており、四隅には「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が描かれている。
 住職曰く「迦陵頻伽(かりょうびんが)」の美声を聞くと一瞬にして悟りを開いてしまうと言われている。
さらに、本尊側から本堂入り口に向かって格天井を見ると(通常は入れません)格天井の仏教画の色が光の加減で鮮やかになり、さらに美しく映える。

 また、かつては拝観料がかかっていたが、現住職になられてから(2010年10月現在)拝観料は無料になっている。

人々が迎えようとしていたのは、新しい住職だけではない。百年に一度しか拝観できない秘仏の特別御開帳を、今か今かと心待ちにしていた。厳かな読経とともに、普段は固く閉じられた厨司から「本尊虚空蔵菩薩」(ほんぞんこくぞうぼさつ)がお姿を現した。人々がそっと手を合わせる。

この仏さまは、百年に一度ご開帳されるはずだったが、公式の記録が残されておらず、前回は三百年前とも四百年前ともと伝えられている。秘仏のため、調査がされていないことから、作られた時期など詳しいことも謎に包まれている。
また、あわせて国指定重要文化財である「銅造薬師如来立像」(どうぞうやくしにょらいりゅうぞう)もご開帳された。こちらは高さ30センチほどで、飛鳥時代に作られた九州最古級の仏像。五十年に一度ご開帳されることになっており、今回の特別御開帳で27年ぶりのお目見えとなった。
この日、僧侶たちは万民の安泰を祈願して護摩焚きを行った。読経とともに火柱が高く上がると、炎の中に仏さまが見えてくるよう。秘仏を参拝した人たちは、熱心に護摩焚きを見守っていた。

 五島市三井楽(みいらく)



 五島市三井楽(みいらく)は、「肥前国風土記」に『美弥良久(みみらく みねらく)の崎』として登場する、遣唐使船最後の寄港地であるといわれています。遣唐使たちはこの柏崎を日本の見納めとし、決死の覚悟で東シナ海へと漕ぎ出していきました。その心境を記した空海の名文“日本最果ての地を去る”という意味の「辞本涯」の碑や、遣唐使として旅立つ我が子の無事を祈る母の歌を刻んだ碑が建立されています。この地に立って、大海原を眺めながら詠んでみると、とても感慨深いものがあります。
 江戸時代に入ると、五島は捕鯨で栄えますが、この柏地区にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを猟期として活躍したそうです。当時は、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっても重要な資源でした。しかし、鯨の減少により幕末にはほとんどの鯨組が解散しました。




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性霊集』(しょうりょうしゅう)は、空海弘法大師)の漢詩文集。10巻。編者は弟子の真済。成立年不詳。

  正しくは『遍照発揮性霊集』(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)。空海の詩、碑銘、上表文、、願文などを弟子の真済(しんぜい)が集成したもので、10巻からなる。正確な成立年は不明だが、遅くとも空海が没した承和2年(835年)をさほど下らない時期までに成立したとみられ、日本人の個人文集としては最古。

 10巻のうち巻八〜巻十の3巻ははやくに散逸し、現『性霊集』の巻八〜巻十には、承暦3年(1079年)、仁和寺済暹が空海の遺文を収集して編んだ『続遍照発揮性霊集補闕鈔』3巻が充てられている。なお、済暹の『補闕鈔』は、散逸した巻八〜巻十そのものの復元を図ったものではないし、後世の偽作と今日では判定されている作品もいくつか含んでいる。

 『性霊集』の序文によれば、真済は、師空海が一切草稿を作らず、その場で書き写しておかなければ作品が失われてしまうため、空海作品を後世に伝えるべく、自ら傍らに侍して書き写し、紙数にして約500枚に及ぶ作品を収集した。そして、これに唐の人々が師とやりとりした作品から秀逸なものを選んで加え、『性霊集』10巻を編んだという。一般的には、『性霊集』の編纂過程は、この序文の内容に即して理解されている。

 しかしながら、真済が15歳で出家し空海に弟子入りしたのは 弘仁5年(814年)なのに、入唐時などそれ以前の作品も『性霊集』に多数収録されている。序文には、真済が書写する以前の作品がどのように収集されたのか、説明されていない。

 飯島太千雄は、空海が入唐時から、将来の文集編纂を企図して自らの作品の写しを取っていたほか、個々の作品に表題を付して10巻に編む最終的な編纂作業にも関与していたと推定している。
 巻五の収録作品と同じものが単体の巻子本として伝存する「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」は、筆跡などから空海真跡の控文と判定でき、さらに余白に付された表題も空海真跡とみられ、最終的な編纂作業に空海が関与していたことが窺えるという[1]

 空海は24歳のときに著した処女作『聾瞽指帰』の序文で、従来の中国と日本の文学を痛烈に批判し、文学における芸術性と真理の両立を理想として掲げている。そして、その文学改革の志は、『性霊集』巻一の冒頭「山に遊んで仙を慕ふ詩」の序でも表明されている。
 文学の改革者たらんとしていた空海が、自らの作品を後世に残そうとしなかったはずがないし、収録作品の選択や配列といった最終的な編纂作業に、空海が関与していた可 能性も十分考えられよう。

『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代の明らかな作品で最も新しいのは、天長5年2月27日828年3月17日[2]の「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」(巻三)である。弘仁14年1月20日823年3月6日)の日付をもつ「酒人内公主の為の遺言」(巻四)を、酒人内親王が没した天長6年8月(829年9月)のものとし、これを下限とする説もある。いずれにせよ、『性霊集』は年代順でなく作品の種類別に編集されているので、失われた巻八〜巻十により年代の新しいものがあった可能性は乏しく、天長5、6年(828、829年)が下限と見られる。それが想定できる成立年代の上限となる。
成立年代をめぐる主な説は以下のとおり。
『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。
  • 天長9年(832年)から承和2年3月(835年4月)の間で空海在世中[4]
序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降[5]とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。
  • 承和2年3月(835年4月)の空海入滅直後[6]
序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。
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034 既ニ本涯ヲ辞ス

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。

 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
 この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
 風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。

 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。
 久賀島の田ノ浦を出帆したということについては『性霊集』では、
「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
(司馬遼太郎『空海の風景』)






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沖縄県の歴史

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沖縄県の歴史


復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、現在の沖縄県にあたる領域を中心とした歴史である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。

琉球と沖縄の名称

琉球国金丸世主書状(1471年)。島津宛の金丸(尚円王)の書状で、琉球国の表記が見える。

 「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求」(607年大業3年)と翌年の記事)が初出で、その後、「流鬼」(『新唐書』)、「瑠求」(『元書』)などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは時代以降である[1]。明以前の「琉球」が現在の沖縄県周辺を指していたかは判然とせず、台湾を指していたという説や、あるいは単に中国大陸の東方にある(日本以外の)島々を漠然と指していたという説もある。

 「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は定かではないが「おもろさうし」には「おきなわ」という名の高級神女名が確認される。このことは「おきなわ」なる御嶽があったことを示唆している。日本の文献として、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年)(淡海三船著)の中に、「阿児奈波」と出てくるのが初出である。
 「沖縄」という漢字は日本語的な当て字であるが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が初出で、これは新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。この「沖縄」という名称が琉球処分後、日本の領土であることを示すため、「琉球」から沖縄に呼称が改められ、沖縄県として県名に採用され、今日では一般化している。[2]

 この間、明との交易が始まった14世紀以降には、琉球王国は自国の国号として「琉球国」(琉球國)を用い、琉球処分により、琉球藩、ついで沖縄県が設置されたが、沖縄県設置後においても地名としては、日本の旧国名(令制国名)として琉球国と呼ばれたりしたが、やがて県名に変って行った。

 「琉球」は中国が名付けた他称で、「沖縄」は本島の住民が周辺の島々や宮古、八重山に対する本島を指すことが語源で、沖縄固有の言葉に基づく名称である。[3]

 なお14世紀以後中国では沖縄本島を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼称したりしていたことがあるため、両者が史書等で混同されることも多かった。

先史時代

 沖縄県には本土のような縄文時代弥生時代のような区分は行わない。先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。

旧石器時代

  沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは不明だが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。
  また、1967年具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8000年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。化石人骨は沖縄本島を中心に、久米島伊江島宮古島石垣島からも見つかっている。

  長らく、県内からは確実な「旧石器」の報告例はなかったが、南城市サキタリ洞遺跡で1万2千年前の石器と人骨が発見されたことが2012年に報告された。このほかにも、一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。
 北辺の鹿児島県奄美群島からは細石器がみつかっている。また、以前はV字状に加工したようなシカの骨を「叉状骨器(さじょうこっき)」としていたが、多くはシカが異食症によって骨を噛んでできたものとする説が有力である。

 港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2000年間の遺跡はほとんど発見されておらず、長らく空白期とされてきたが、近年では上記のようにサキタリ洞などでこの間の空白を埋める人骨や石器が発見されつつある。

沖縄貝塚文化

 貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期に大きく分けられる。前半については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになる。狩猟採集経済で縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれる。
 後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられている。弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代の遺物の流入はみられるものの、弥生文化の影響はあまり見られず、むしろ独自色が顕在化する時期である。
 また貝の道と呼ばれる、貝輪などの貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。また、奄美地方では螺鈿細工の原料となるヤコウ貝の集積地が存在し唐代貨幣(開元通寶)が発見される事から九州地方の商人の活動が推定されている。 

 縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島宮古諸島八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。
 これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになると徳之島産のカムイヤキや長崎産石鍋やそれを模倣した鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。

 古代史では、『続日本紀』の記録として、714年和銅7年)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されている。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定している。また753年天平勝宝5年)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。
 これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消える。これらの古代史料から、7世紀から8世紀にかけての南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されている。

古琉球

 沖縄県における農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものだが、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされている。農耕社会が成立してから、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」と呼ぶ。

神代

 琉球王国正史中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。
 『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[4]
 なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[5]するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

 また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が琉球の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという。夫婦神は島で三男二女をもうけ、長男は国王の祖先となり、彼の子孫を天孫氏と言う。また次男は諸侯の、三男は農民の、長女は君々(高位の神女)の、次女はノロ(巫女)の先祖となった。天孫氏は25代に亘って沖縄本島を支配したが、およそ12世紀末頃に地方豪族(按司・あじ、後述)が各地で反乱を起こし、天孫の重臣である利勇(りゆう)が王を弑し自ら僭称す。
 しかし各地の按司は彼に従おうとせず、浦添按司である舜天が利勇を討ち取って国を統一した。舜天の家は3代にかけて支配したが、第3代義本によって英祖禅譲が行われて断絶した。英祖は5代にわたって治めたという(英祖王統)。

 宮古島にも別系統の創造神話がある。詳しくは宮古島#神話の項を参照。

古代

  『日本書紀』では616年推古天皇24年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、629年舒明天皇元年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載や、677年(天武天皇6年)に多禰島人を饗したとか、679年(天武天皇8年)に朝廷から使を多禰島に遣わしたという記事などが見られる[6]
  また、682年(天武天皇11年)には、朝廷から多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれに禄を賜るという記事があり、掖玖(ヤク)を、初めて、特定の屋久島をさすような言葉として並列し区別するような記載がなされたが、それ以前は、古代日本ではこの地方の交易品である「ヤコウ貝」のことを「ヤク貝」とよんでいるので、7世紀末以前までは「ヤク」とは、必ずしも特定の島をさすものではなく、九州以南の地域を指す言葉として用いていたようである。

  『続日本紀』には、698年(文武天皇2年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士南島(なんとう)(南西諸島)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は屋久島、種子島、奄美大島の朝貢関係を確認することにあり、699年(文武天皇3年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。
 
  これ以降、朝廷は種子島に国司を派遣するとともに、久米島や石垣島にも服属を求める使者を派遣している。715年(元明天皇和銅8年)には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとある。他にも720年(元正天皇養老4年)に南島人232人に位を授け、また727年(聖武天皇神亀4年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある[6]

 これらのことから、九州以南の島々をこう呼んでいたとともに、これら現在の日本の南西諸島に属する島々が朝廷に貢献していたことを示している。

中世

グスク時代

グスク跡(世界遺産

 12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

 この時代は日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。舜天英祖といった王朝初期の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられる。日本から平仮名が導入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われる)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流もあり、これらが融合してその後の琉球文化の基となった。琉球の信仰ノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素がある。後に仏教も伝来した。
 1291年元軍が襲撃した「瑠求」は台湾のことであり、元軍を英祖王が撃退したという話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想である[7]

三山時代

三山時代の勢力図

 14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、怕尼芝が治める北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の朝に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せた。

 三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北(北山)王の攀安知を滅ぼし、その領土であった奄美群島南部(沖永良部島以南)を領土に組入れ、1429年頃には山南(南山)王の他魯毎を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一した。第一尚氏の始まりである(なお、1429年は統一した年ではなく、山南国の使者が明に最後の朝貢船を派遣した年で、この年までは山南王国があったと推測されている。(ただし近年では1422年頃にすでに尚巴志の統一は済んでおり、従来との継続性から1429年に山南名義で朝貢したという説が有力である)。

第一尚氏王統

グスク時代

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グスク時代   

12 - 13世紀のグスク時代に築城された勝連グスク[1]。『おもろさうし』には、当時の繁栄ぶりから、勝連グスクを「大和鎌倉」と例えている[2]

 グスク時代(グスクじだい)は、沖縄先島諸島および奄美群島における時代区分の一つ。奄美・沖縄諸島では「貝塚時代」、先島諸島は「先島先史時代」の後に続く時代区分である。「グスク時代」はグスクによって代表される考古学的な時代区分で、それ以前は歴史学者により「按司時代(あじじだい)」と呼称されていた。

 開始年代は11世紀ないし12世紀頃、終了年代は琉球王国が誕生する15世紀前半、または16世紀頃までとされ、研究者によって年代範囲が異なる。グスク時代は城塞としてのグスク・按司の登場、農耕社会の確立、交易による石鍋カムィヤキの伝播、そして奄美から先島までの文化圏が統一したことにより、社会的に大きく変容した時代とされるが、これらに異議を唱える者もいる。

グスク   

グスクの石垣

 グスク(御城)もしくはスク(城)とは、南西諸島の内、沖縄地方領域である奄美群島鹿児島県)から八重山諸島沖縄県)の沖縄弧とも呼ばれる地域にかけて、多数存在する古代(グスク時代)の遺跡
地域により形態や呼び方に違いがある。三山時代には王や按司の居城となっていた。

起源

グシク、グスクは本土でいうところの「」である。 (奄美の苗字としてはグスクではなくキズキという音で城を意味する) 学問的には、本土のように単に軍事拠点として作られたものとは考えられていない。但し奄美群島においては、最初から軍事拠点であったとの指摘もなされている。 この様に、グスクの起源には様々な説がある。
1)「聖域説」
沖縄の信仰の聖地として、御嶽(うたき)があるが、グスクはもともと御嶽であったと考える説。
2)「集落説」
もともと集落として発生し、周辺を石垣で囲ったものとする説。また、1)とあわせ、御嶽を中心に発達した集落であるとする説。
3)「城館説」
地域の有力者の居城として構築されたとする説。

特徴

  沖縄本島以南では早くから野積みの石垣が使われているが、その構築技術は極めて高く、マチュ・ピチュの石造技術と比較されることもある。沖縄本島北部の一部や奄美群島では石垣を用いない「土のグスク」もある。また古いグスクには必ず、その中に御嶽があることが確認できるともされるが、奄美群島では未調査のものが多く大半が確認出来ていない。

主なグスク

沖縄本島

奄美群島


時代名称

復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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 「グスク時代」が提唱される前は、歴史学者の仲原善忠が1952年に執筆した中学生用の社会科副読本『琉球の歴史』において「按司時代」が用いられ[3]、仲原以外の歴史学者もそれに倣って使用した[4]。仲原は『おもろさうし』から、「按司時代」はすでに階級社会であり、按司による武力支配が行われたと解している[5]。また仲原は、「按司時代」を封建社会として認識し、その後の「三山時代」へ続くと述べている[6]

 「グスク時代」という名称を最初に使用したのは高宮廣衞である[7][8]。考古学を専門としていた高宮は、当時代の遺跡である城跡や集落跡に関連した時代名称を考えあぐねていた[9]。1960年12月、高宮は"castle period"や"castle culture"という語句を用いて、英文レポートに記載し、アメリカの学会に提出した[10]。高宮は、多和田真淳が1956年に提示した琉球王国成立以前の「貝塚時代」晩期を「城(ぐすく)時代」と命名し[11]、1966年に発表したレポートに記載した[9]
 その後、1973年頃の「グシク論争」から「グシク時代」へ、1975年頃からは「グシク」が「グスク」へ呼び名が変化し、「グスク時代」となった[12]。歴史学者の高良倉吉は、1980年発行の著書に使用して以降、多くの歴史学者も「グスク時代」を使用し[13]、「按司時代」は殆ど用いられなくなった[14]

 奄美・沖縄諸島では「貝塚時代」、先島諸島は「先島先史時代」の後に続く時代区分である[15]。またグスク時代は、先島諸島においては「スク時代」、奄美群島は「古代並行期」や「中世並行期」といった名称も使用されつつある[16]

年代範囲

 グスク時代の年代範囲は研究者により異なり、また年月と共に変遷している[12]。1970年代におけるグスク時代の開始時期は、10世紀前後であったが、1980年代は12世紀頃が主流となった[17]。嵩元政秀の1972年に発表された論文によると、10世紀に現れた「フェンサ下層式土器」は、貝塚時代後期の土器の特徴を持ちながらも、この土器が発掘された遺跡の多くは、農耕に適した丘陵上の土地に形成され、さらに中国製青磁も出土することから、10世紀頃をグスク時代の開始時期とした[18]。その後の12 - 13世紀の「フェンサ上層式土器」は平底で、農耕的な土器へ変化し、鉄器や陶磁器も出土するなど、グスク時代を象徴する生産経済社会に突入したと述べている[19]
 しかし嵩元は、1983年の著書『沖縄のグスク時代』には、「フェンサ下層式土器」の出現年代を10世紀から11 - 12世紀に訂正し[20]、さらに『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』(1991年)にも嵩元が執筆した〈総説 グスク時代〉の項目にも、「グスク時代は西暦1200年前後に始まるのが妥当」と述べている[21]。また當眞嗣一と上原静は、グスク時代開始期を12世紀後半頃としている[7][22]

 安里進は、城塞として機能したグスクの築城時期をグスク時代の開始期を検討する材料の一つと考えているが、単にグスクの出現時期を、グスク時代の開始期とするのは無意味であると述べている[23]。なぜなら、城塞や集落拝所といった祭祀施設などの多種多様なグスクが混在し[21]、どのグスクの出現をもって、グスク時代の開始期とするのかを問題にしなければならないからである[23]
 そこで安里は、防護のために岩山の頂上部に二重ないし三重に石垣を囲み、また武器や高価な交易品が出土するなど、城塞的に機能した大型グスクに注目し[24]、数千から数万平方メートルの琉球独特の大型グスクが形成された時期を、グスク時代するのは当然であるとした[25][注 1]。そして安里は、大型グスクの出現時期と思われる13世紀頃を「政治的時代」(狭義のグスク時代)の開始期とし、農耕社会に適した広底土器が出現した10世紀頃(その後11世紀頃に修正[31])から13世紀頃までを、「生産経済時代」(後に「原グスク時代」)とした。

 グスク時代の終了年代は、第一尚氏が三山統一を果たし琉球王国が成立する15世紀前半[34]、もしくは王政が確立したとされる第二尚氏尚真王時代の16世紀頃としている。安里進は、島津侵入により、防塞機能を持ったグスクが消滅した時期ではなく[34]、文献史料により明らかにされた三山の統一、つまり琉球王国の成立時期をグスク時代の終末とした[36]。また當眞嗣一は、八重山を支配していたオヤケアカハチが、中央集権政策を図った尚真王によって討伐された時期を、グスク時代の終焉とした[37]
 1980年に高良倉吉は、琉球・沖縄の歴史区分を5つに大別した[3]。その一つの「古琉球(古代沖縄)」の始まりは、などの穀物栽培が沖縄に拡大、さらに外来からの文化的な変容により、先史時代と異なる社会的変化の様相を呈する段階とした[38]。そして高良は、グスク時代を按司時代から三山時代までの年代と一致すると解し、グスク時代は古琉球を前・中・後期の3期に区分した時の前期に相当すると述べている[39]。また高良が作成した年表に、三山時代はグスク時代の後半に含まれ、グスク時代全ての範囲を埋めていない。今日において、高良の設定を基にした沖縄の時代区分が、一般的に用いられている。

主な特徴

グスクと按司の登場

 グスクは奄美群島から先島諸島にかけて点在する[注 2]、16世紀前半までに建造された遺構である[42]。安里進は、グスク時代はグスクという城塞のような役割を果たした遺構が登場し、琉球王国が形成し始める政治的な時代と述べている[43]。貝塚時代後期には、立地が防御に適しているが、防塞機能を有した石垣や柵などの人工物が無い「グスク的遺跡」が見受けられる[44]
 その後、城塞的なグスクが登場するようになり、石垣は自然石をそのまま積み上げた野面積みから、人工的に石を加工して用いた切石積みへと発達した[45]。そして、既存のグスクを拡張して強化を図ったが、1609年島津侵入をもって、城塞として機能したグスクは終りを迎えた[46]。奄美群島にも沖縄本島と同じくグスクが築かれ、11世紀頃は城塞ではなく、拝所や集落として機能していたとされる[47]

 グスクの主である按司の出現時期とグスクの発生時期が一致するかは不明だが、史実により按司は11世紀以前に出現したのではないかと、高宮廣衞は考えている[48]。グスク時代の最盛期になると、按司(「世の主」、「てだ」とも[49])たちは互いに抗争を繰り広げ、勢力が拡大し、ついには按司の中の按司とされる「大世の主」が誕生した[50][51]。そして沖縄本島北部・中部・南部地域それぞれを、北山・中山・南山という三大勢力(三山)が統治するようになった[51]。その後、思紹と子・尚巴志により三山は統一され、琉球王国が成立した[50]第二尚氏王統の尚真王時代には、各地に構えていた按司たちを首里城に住まわせ、按司たちに武器の使用禁止を命じ、また位階制により身分を明確にするなど、国王を頂点とする中央集権が確立したとされる。
 これを期に、グスクは遺跡として残り、領主としての按司は役割を終えた[52]。奄美群島における伝承では、グスクの主である按司は奄美各地で抗争し、また海賊から住民を保護し、英雄として讃えられたという[47]。14世紀頃から琉球王国が奄美を支配下に置くまで按司は、海上流通に従事していたと考えられる[53]

沖縄 第一尚氏王統

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沖縄 第一尚氏王統

首里城正殿(復元)

 初代琉球国王尚巴志王首里城を王都とした。彼の死後に第2代琉球国王に就いた尚忠王は在位5年で死去、第3代琉球国王は尚忠の息子尚思達王だが在位4年で死去、思達は子が無く、叔父の尚金福王(巴志の六男)が第4代琉球国王となるが彼も在位4年で死去した。金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった(志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第5代王位に就いた。

 尚泰久王はそれまで島だった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設したが、工事がうまくいかないことから1451年天照大神を日本本土から招き、祈願したところ完成したため、沖縄県内において最初の神社「長寿宮」を建立した。続いて「波上宮」を初めとして琉球八社といわれる神社が整備された。また彼は「万国津梁之鐘」を鋳造し、日本僧芥陰に選ばせた文章をに刻み付け、「異産至宝は十方刹に充満せり」とした。1458年に完成すると在位7年で死去した。この鐘は復元され、現在も首里城にある。

 尚泰久王の子である尚徳王は在位9年で急死する。法司(後の三司官)は尚徳王の世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて、重臣たちを前にして、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)を次期王に推挙した。重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が1470年、国王に即位した。金丸は、1472年には明から冊封使が派遣され、中山王に封じられた。金丸が即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説があり、実際に金丸によって第一尚氏王統の王族はほとんどが殺害されている。

 この時代の交易関係については、尚泰久王は「異産至宝は十方刹に充満せり」と称しているが、「歴代宝案」においては「本国は貢物が稀少です」と一貫して述べられており[8]、異産至宝はあっても貢物は少なかった事が分かる。両者の整合性については不明だが、とりあえず「異産至宝」が充満しているとは述べられているが、それが王府の所有物だとは一言も述べられていない点は指摘できる。

 また尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください[9]」王府が厳しい懐事情をやりくりして、懸命に朝貢を続ける様子が窺える。

第二尚氏王統

琉球の黄金時代

尚真王の治世は琉球の黄金時代であった。

 金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位6か月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられる。
1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。彼は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。
 さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。

 第二尚氏は第一尚氏に引き続き、中国に対する朝貢と、進貢品を買うための貿易活動を行った。この点については「海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行った」と説明される事があるが、王府側見解にはそんな話は一切見られない。実際、アルブケルケによれば、1511年時点で中国人商人はマラッカで普通に活動しており、その人口はむしろマレー人より多く最多であるとの事である。[10]
 この頃の東南アジア貿易については、王府自身の説明は前時代と変わらず「品物が稀少であるのは深く便ならず(本國産物稀少缺乏貢物深爲未便)。だから買いに来ました[11]」としており、進貢品に乏しい内情を強調して、協力を求めている。このような朝貢の在り方について、1606年に尚寧冊封正使として来島した夏子陽は、王府の負担になっている事を指摘して、求めるべきではないとし[12]、また中山の貢物は貧相なのが当たり前なので、貢物の良し悪しは問うべきではない、としている。[13]また従来の二年一貢も、王府には出費が勝っている事実を指摘している[14]
 夏子陽はまた、これら海外の産物は日本人から購入しているとも述べている[15]。王府の東南アジア貿易の内情がどうだったのかは、不明な点が多いが、とりあえずこのような貿易について、王府にどれほどの利益があったのか、という根本的問題については、「歴代宝案」によれば、60年間毫も利益が入らない、と王府自身が述べている。[16]

 このように明への朝貢は経済的負担が大きかったが、尚真王はこれに対し、領土を広げ、搾取を強化し、年貢収入を増大させる事で経済的基盤を安定させようと試みた。正史「球陽(141号)」に曰く、「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」また「忠導氏家譜正統」には、「於是、請命、置役人、諸村令定毎丁賦数矣」とあり、仲宗根豊見親が中山の命令を請け、人頭税を定めた事が述べられている。八重山はこのような恐喝を拒絶したので、中山は公称3000(ただし船は46艘しかないので半分が妥当と思われる)の軍隊を派遣しこれを征伐した。その後しばらくの八重山統治体制については、史料が混乱しており不明瞭だが、とりあえず1524年に、園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)を設置させて以後は、蔵元を中心とする統治体制が確立した。奄美群島については、1447年尚思達王奄美大島を従わせ、1450年から1462年まで喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃していた。1466年尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。1571年には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島の領主達を制圧している。(奄美群島の歴史参照)

 このような年貢収入の増加と関連して、1600年頃に琉球米の本土への輸出という商売があった事が「琉球入ノ記」から窺える。既述の如く、中山の海外交易は史料上基本的に、明への朝貢か、朝貢用の物品購入に限られるが、これはその数少ない例外である。ただし輸出を請け負っているのは本土の七島衆である。またこの史料からは、本土からの借金を米で返そうとした事も分かる。ただし結局は、その米すら払わずに踏み倒そうとしている。
 尚真王が必死で搾取強化に取り組んだにも関わらず、王府の財政が全然好転しなかった事が窺える。
「河充氏家譜」によれば、砂川親雲上旨屋によって、1597年に初めて宮古にサツマイモが導入された。1605年には本島にも野国総管により導入が行われた。八重山については、1694年、波照間高康によって行われている。サツマイモは琉球諸島全土の食糧事情を劇的に改善した。宮古・八重山に至っては、米穀は全て王府に搾取されるため、薩摩芋とその葉っぱが唯一の食糧であった[17]。また人口も増大したが、その反面、子供が多いと人頭税の負担額が増えるため、八重山ではしばしば嬰児殺しによる人口調節が行われ、明治時代に人頭税が廃止されるまで続いた。野国総管の功績は現在も称えられている。
 因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では琉球から来た芋としてリュウキュウイモ(琉球芋)と呼ばれ、現在はサツマイモの名称が定着している。

 一方、1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。
 この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。

港川人

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港川人

   
港川人の復元模型。国立科学博物館の展示[1]。模型制作時は港川人は縄文人の祖先と思われていたため、日本人に似せて模型が作成されたが、後年、最新機器を使った人骨再調査によりこの模型とは異なり、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い復元図が発表された [2]

 港川人(みなとがわじん、Minatogawa people)は、約20000~22000年前に日本沖縄県に存在していたとされている人類
港川人(港川1号)の化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。

 1967年[2]から1970年[5]、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。この人骨は、全身骨格の形で残っている日本の人骨の中で最も古いものである[3]

 身長は男性で約153〜155cm[6]、女性で約144cm[要出典]であった。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて、硬いものも食べていたとされている。

 かつて港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきた[7]が、2009年の研究で、港川人を縄文人の祖先とする考えに疑問を投げかけるような分析結果が出ている。港川人は現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかという説である。 国立科学博物館の海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性がある。つまり、港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来したことになる。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかと述べられている[2][5]

 沖縄県立博物館・美術館には「港川人復元像」が所蔵されている。また、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には、常設展示の1つとして港川人コーナーがあり、全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。
2014年には、港川と近距離の沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で少なくとも9000年以上前の人骨が発掘され、調査が進められている[3]



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沖縄県立博物館・美術館交通・時間・料金

地図

地図

1 ご案内

主な交通
沖縄モノレール・バス・タクシー
路線バス
おもろまち駅前下車(琉球バス、沖縄バス、那覇交通)
バス
那覇空港発 99番線 おもろもまち3丁目バス停下車 徒歩5分
那覇空港発 120番線 上之屋バス停下車 徒歩10分
市内線 3・7・10番線 県立博物館前バス停下車
市内線 6番線 那覇メインプレイス東口バス停下車 徒歩5分
市外線 バイパス経由 おもろまち駅前バス停下車  徒歩10分
おもろまち行 おもろまち1丁目バス停下車  徒歩3分
沖縄都市モノレール
ゆいレール おもろまち駅下車 徒歩10分
中北部から
空港線及びおもろまち行各社バスで交通広場下車徒歩5分
南部から
バスターミナルから沖縄モノレール乗り換えおもろまち下車徒歩10分
空港から
沖縄モノレールおもろまち下車徒歩10分
タクシーで、博物館・美術館まで、約30分



常設展(総合展示)

 常設展は、総合展示と専門分野ごとの部門展示からなり、沖縄の自然・歴史・文化を、「海洋性」と「島嶼性」という二つの側面から読み解いていきます。
古来より、沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられてきました。島には固有の自然があり、人々の営みがあり、そのひとつひとつが沖縄県の特徴ある自然・歴史・文化を形作っています。島に息づく豊かな自然と、島をとりまく海を媒介とした人々の営みを紹介するとともに、トー(唐:中国)とヤマト(日本)との間で花開いた琉球王朝文化、そして目まぐるしい世替わりを体験してきた沖縄の近代史と戦中、戦後史を射程に入れ、常設展のメインテーマを「海と島に生きる-豊かさ、美しさ、平和を求めて-」としました。

総合展示

 常設展へのアプローチでは、イノー(ラグーン)に広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験することができます。そして正面のサークルホールでは、琉球列島の成り立ちと生物の進化をテーマとした映像とともに、1万8千年前の原始の沖縄に暮らした港川人とその時代の動物相の再現模型が展開します。これに続く総合展示では、「海で結ばれた人々」から「沖縄の今、そして未来へ」まで各テーマに沿って、沖縄の豊かな自然と海からの恵み、そしてそこにくらした先人たちの歴史・文化をたどっていきます。
 また、展示室中央に設けられた「シマの自然とくらし」のコーナーには、鹿児島から台湾まで東西1000キロ、南北400キロの海域に散在する琉球列島の大小の島々を壮観できる大型ジオラマを配置し、島々の特徴ある自然・歴史・文化を情報端末機を用いて紹介しています。また、人工衛星によって撮影された画像を用いて、島々を観察することができます。
■島の自然と暮らし
■島の自然と暮らし

プロローグ ニライカナイの彼方から

 常設展へのアプローチです。足下にサンゴ礁を見ながら、沖縄へ上陸するイメージを演出しています。

1 海で結ばれた人々
サークルホールの展示

 「化石の宝庫・沖縄」から発見された、さまざまな化石を展示しています。クジラやアンモナイトなど、原始の海にくらした生き物をはじめ、1万8千年前の日本人のルーツと目される「港川人」や、その頃に生きていたリュウキュウジカ、ヤンバルクイナなどの化石が、ステージ上に展開します。また、正面のスクリーンでは、古生代から現在に至るまでの琉球列島の地史を映像で概観し、沖縄の自然・歴史・文化の旅へと誘います。
■サークルホール
■サークルホール
古我地原貝塚模型
 うるま市石川で発見された古我地原貝塚の発掘調査にもとづき、縄文人の生活を復元しています。東側に海を望む台地上に、小さなグループで暮らしていた縄文人たちの竪穴式住居や、ゴミ捨て場である貝塚など、縄文人の生活をみることができます。

2 貝塚のムラから琉球王国へ

グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。また、有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。各地の勢力は、やがて北山、中山、南山の3つに収斂し、激しい抗争を繰り広げます。これらの3つの勢力は、15世紀はじめまでに尚巴志によって統一され、琉球王国が築かれました。ここからおよそ500年の長きにわたり、首里を拠点とする王国の歴史がはじまります。

3 王国の繁栄

 琉球王国は独自の国家として成立しましたが、国内権力基盤の不安定さによって、第一尚氏から第二尚氏へ王統の交代が起こりました。この時代、中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球は、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行います。東アジアの大海原の架け橋として船を操り、国際色豊かな産物が国中にあふれるさまを謳った旧首里城正殿鐘の銘文は、往事を偲ぶ貴重な資料です。ここでは、東アジア有数の貿易国家として繁栄したあと、より強固な国家体制がつくられた琉球王国の時代を紹介します。
■進貢船
■進貢船

4 薩摩の琉球支配と王国

 1609年、薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれましたが、中国との関係は引き続き維持されました。羽地朝秀、蔡温など政治家の強力なリーダシップによって、王国の経営が行われ、近世文化が創造されていきます。またこの時代、貝摺奉行所などによって優秀な工芸品が多くつくられるとともに、「中山世鑑」、「球陽」などの歴史資料が数多く著されました。

5 王国の衰亡

 中国・日本という両大国との関係を維持しながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営は行き詰まりが顕著となりました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。

沖縄の近世

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沖縄の近世

江戸幕府の明通商計画

 豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じた。1603年江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府中国大陸と通航を考えるようになる。1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を送り返した。
 以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたが、王府は謝名親方の反日思想に引きずられ、幕府の要求を一貫して無視した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

薩摩の侵攻

 第二尚氏第7代尚寧1609年3月4日樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日奄美大島へ上陸した。大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行った。この時点で琉球王府は天龍寺長老を大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触せず、失敗した。3月17日徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧された。薩摩軍は3月26日沖縄本島北部の運天港に到達。27日、今帰仁城に向かったが、既に無人であった。またこの日、西来院菊隠が今帰仁に到着、正式に降伏を申し出た。
 これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決定した。しかし樺山は内心、琉球を信用しておらず、念のため主力は陸路で首里に向かわせる事とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は陸路で首里へ向かい、午後2時頃到着した。那覇では和睦調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。最終的に、摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、5月半ばに尚寧と共に薩摩に帰った。

 翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。

 1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文を提出した。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

 以後、尚氏代々の王は江戸幕府将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球ととの朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。

王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

 島津侵攻から約50年後の1665年羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。羽地仕置(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。

 羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

 この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。
 羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

中継貿易の衰退

 幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。1844年イギリスフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年に薩摩が琉球を英仏に開港した。

 1853年には米国マシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。1854年3月31日嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

 清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩 - 沿海州対馬藩 - 李氏朝鮮長崎 - 清・オランダ薩摩藩 - 琉球 - 清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

 なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。


琉球征伐    

琉球征伐交戦勢力指導者・指揮官戦力損害
戦争:琉球征伐
年月日慶長14年(1609年3月7日 - 同年4月5日
場所琉球王国(現・沖縄県鹿児島県奄美群島
結果薩摩藩の勝利、琉球の降伏
薩摩藩Japanese Crest maru ni jyuji.svg琉球王国Hidari mitsudomoe.svg
樺山久高
平田増宗
など
尚寧王
謝名利山
名護良豊
豊見城盛続
今帰仁朝容 
など
3,000人10,000(沖縄本島、4,000人)
100~200人[1]不明
復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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  琉球征伐(りゅうきゅうせいばつ)は、薩摩藩1609年に行った、琉球王国(中山)に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、戦闘はほとんど起こらなかった[2][3][4]

  名称については、一次史料肝付兼篤書状」には琉球国御征伐と明記されている。また「琉球入ノ記」という二次史料が存在するほか、一次史料「琉球渡海日々記」には琉球入番衆主取なる役名が見られる。本項では琉球入りという呼称に対する批判[5]を尊重し琉球征伐を用いる。琉球側の史料『中山世鑑』には己酉の乱と呼されている[6]
 なお、戦前よりの日本史学上での用語としては、征縄役が使われる場合が多かった[7]


原因

 1602年仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた[8]。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。

 このため、本事件の根本的原因については謝名の人格的要因のため[3]とされている。

 もっとも、16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり[9]、その両者の緊張関係が琉球征伐の至る過程に大きく影響したと考えられている。

奄美大島へ

 薩摩軍は総勢3000人、80余艘であった。大将は樺山久高、副将平田増宗である。1609年2月26日[10]山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に出港した。同日亥刻、口永良部島に着く。6日辰刻に出船し、7日申刻には奄美大島に到着した。大島では戦闘は一切無く[10]、大島の現地首脳は中山を見限り、全面的に薩摩に協力していた[11][12]

 7日申刻に大島深江ヶ浦に着き、8日には周辺を打廻った[13]。薩摩軍は、笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いていたが、そんな人衆はおらず何事も無く終わったという[13]。彼等は悉く山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った[10]。薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在したが、12日には出船し、大和浜を経由して16日には西古見に着く。ここで順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。

 中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、接触すらなかった[3]。以文はどこかに隠れていて薩摩軍と出合わず、後で勘気を蒙ったとする史料がある[10]。なお、戦闘があったことが記載されている史料もあり[14]、これを支持する研究者もいる[15]

徳之島へ

 3月16日、13艘が徳之島へ先行した[13]。これに対し徳之島では一部島民が果敢に抵抗したが、速やかに制圧された[10]。かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。

 湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。
 秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという[14]。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た[14]

 徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている[13]
 本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。

本島

 3月25日酉刻過ぎ、薩摩軍は沖縄本島北部今帰仁運天港に到着した。27日には今帰仁城に行ったが、空き屋だったので、方々に放火した[13]。薩摩軍が向かう前に逃げ落ちたという[10]

 薩摩軍が今帰仁に到着すると、西来院菊隠が和睦の使者に選ばれた[3]。菊隠は琉球人だが、若くして出家して日本に十数年遊学し、帰国後は円覚寺住職を勤め、この頃は老齢のために退職していた[2]。人選の理由としては、島津三殿と知り合い[3]、日本語に達者[2]との説がある。菊隠は最初は断ったが国王に重ねて召されたため、国恩に報いるべく、已むを得ず詔に応じたという[2]

 『行向て無為和睦を申調られよ』との詔を奉じた菊隠使節団は、26日辰刻に陸路で出発した[3]。随行の人員には名護親方や喜安などがいた。26日午刻に久良波に着くが、ここで今帰仁までの道は敵で満ちており通れないと聞いた一行は、久良波から漁師の舟を出させて恩納に行った。27日払暁、恩納より船で出発、親泊で一時停泊して、「使者を出して趣意を述べさせる」案を議論していたところ、薩摩船一艘がやって来た。この船に乗り移り今帰仁に着いた[3]
 菊隠の趣意について兼篤は、「ただ合戦を止められるべし、進退は宣く乞に随うべし(進退はおっしゃる通りにいたします)」とし、さらに菊隠到着直後に、またまた使僧が到着したことも報告している[10]。運天で決定したのは、那覇で和睦の談合を行うという事であった。この結果、名護親方が人質になった[3]

 29日早朝[13]、菊隠は薩摩船団とともに運天を出港、同日酉刻大湾に着く。菊隠使節団のみすぐ再出港して亥刻に牧港に着いた。そこから徒歩で夜更けに首里城到着。報告を済ませて夜明け頃には那覇に下って待機した。

 運天での和睦申し入れを受けて、樺山は悉く那覇港に行くつもりであったが、ここで那覇港の入り口に鉄鎖が張ってあると聞いた。そこで4月1日、樺山は数人の物主を船で那覇港に向かわせる一方、残りは総て陸に挙げ[16]、1日卯刻、首里への行軍を開始した[10]。この頃、和睦の旨を万が一にも違えじということで、具志頭王子が大湾の沖まで出向いたが、薩摩軍は既に陸地から発向した後だったので虚しく帰った[10]

 薩摩軍は浦添城龍福寺を焼き払いつつ首里に接近した[3]。情報に基づいて、太平橋に宗徒の(むねと。中核となる侍)百余人を配置したところ、会敵には成功したが、雨のように鉄砲を打ちかけられ、城間鎖子親雲上盛増(城間盛久の長男)は被弾してそのまま首を取られ、その他全員は戦意喪失して首里城に逃げ込んで終わった。一方で中山王府の御典薬を勤めていた山崎二休なる越前人が、首里城のアザナに立てこもって法元弐右衛門の部隊を撃退した[17]
 このような戦闘行動について、小湾浜にいて、那覇首里の様子を聞き合せようとの議定だったが、足軽衆が首里へ差し掛かり、鉄砲を取合い、特に方々に放火したので、計らず軍衆は首里近く差し掛かったとする史料[13]があり、足軽衆が発砲して放火したものの、その他の軍衆については、あくまで仕方なく首里に接近しただけであると薩摩側では主張している。大湾・首里間で「和平を成するに狼藉然るべからず」との下知があった、そのうちいよいよ和議が成ったので諸軍勢は那覇に入った[10]

 4月1日未刻、薩摩船が那覇港に入り、和睦の調があった。列席者は薩摩側:大慈寺、市来織部、村尾笑栖。琉球側:具志上王子尚宏、西来院(菊隠)、名護、池城安頼豊美城續、江栖栄真、喜安、津見などであった。するとにわかに「首里で火事だ」と騒がしくなった。「昼なのだから、手あやまりによる火事ではない。敵が攻めてきて火をかけたのだろう」と思われた。止めてくるといって、市来織部と村尾笑栖が首里まで駆け上がり、程なくして静まった。
結局、首里侵入事件は、摂政・具志上王子と三司官が人質になる事で決着した[13]。実際に彼らが引き渡されたのは2日である[3]

伊予市(いよし)は、複数の削り節工場が立地し、国内に出荷される6割のシェアを占めている

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伊予市   

いよし
伊予市 国 地方 都道府県団体コード面積 総人口人口密度隣接自治体 市の木 市の花 市の鳥 伊予市役所 所在地 外部リンク
下灘駅と瀬戸内海.jpg
Flag of Iyo Ehime.JPG
伊予市旗
Symbol of Iyo, Ehime.svg
伊予市章
2005年7月15日制定
日本の旗日本
四国地方
中国・四国地方
愛媛県
38210-8
194.44km²
36,744
推計人口、2015年10月1日)
189人/km²
大洲市喜多郡内子町
伊予郡松前町砥部町
メタセコイア
菜の花
なし
799-3193
愛媛県伊予市米湊820番地
北緯33度45分26.8秒東経132度42分13.2秒座標: 北緯33度45分26.8秒 東経132度42分13.2秒
伊予市庁(市役所)
伊予市
伊予市位置図
― 市 / ― 町
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双海の日没

  伊予市(いよし)は、愛媛県の中予地方に位置する。中予地方の最西に位置し、以西は南予地方となる。
2005年平成17年)4月1日道後平野に位置する旧伊予市を中心に、山間部の伊予郡中山町瀬戸内海に面した同郡双海町合併(新設合併)し、新たに伊予市となった。

  複数の削り節工場が立地し、国内に出荷される6割のシェアを占めている。また、五色浜をはじめとした海水浴場や、ゆうやけこやけラインなど、美しい瀬戸内海が本市の観光資源として支えている面も大きい。

歴史

古代・中世
  • 弥生時代弥生式の土器が出土していることから、このころ人が住み着き生活していたと考えられる。
  • 6世紀 山のふもとで農業が営まれ、伊予岡古墳などがつくられたと推定される。
藩政期
大洲藩主・加藤氏の願いにより、松山藩の伊豫・浮穴郡の37か村と、大洲藩領地の桑村、風早郡の57か村が対象となった。このため郡中地方は御替地と呼ばれるようになった。
  • 1635年(寛永11年) この頃、郡中の灘町で商人が事業を営み始める。
  • 1636年(寛永12年) 宮内九右衛門、清兵衛兄弟、御替地入殖。旧郡中を中心とする地域の開発に着手する。
  • 1774年安永2年) 本郡に塩田ができる。
  • 1812年文化8年) 岡文四郎、郡中港を作る。万安港(ばんあんこう)という。
  • 1817年(文化13年) 大洲藩の布達により御替地から郡中に改称。
喜多地方(後の喜多郡)が郡内と呼ばれていたのにならって「郡中」としたものであろうといわれる。
近代(伊予市発足まで)
郡中町 1889年(明治22年)に、郡中灘町の一部、郡中湊町を合併して発足。
郡中村 1889年(明治22年)に、郡中灘町の一部、米湊町、上吾川村、下吾川村、南黒田村の一部が合併。
北山崎村1281年(弘安4年)、河野通有元寇の功により山崎の荘を賜り、1635年(寛永11年)大洲藩に属す。1889年(明治22年)の町村制実施に際して、三秋村、中村、市場村、森村、本郡村、尾崎村、三島村、稲荷村を合併し北山崎村となった。
南山崎村 1889年(明治22年)に、大平村、鵜崎村、両澤村、上唐川村、下唐川村が合併して南山崎村となる。
南伊豫村1885年(明治18年)に上野村、上三谷村、宮下村、八倉村を合併し発足。1889年(明治22年)に下三谷(しもみたに)村を合わせて南伊豫村となる。
伊予市の発足
(資料)伊予市(旧市)市勢要覧ほか

主要観光資源

施設・観光地

名産

唐川地区で生産。2007年平成19年)8月、びわ茶生産組合の製造する「びわ葉茶」が、えひめ愛フード推進機構の推進している「愛あるブランド産品」として認定された。

南西諸島の海神信仰

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南西諸島の海神信仰
はじめに
1.竜神
  1) ヤマト文化圏の竜神信仰
  2) 琉球文化圏の竜神信仰
  3)中国・台湾・韓国の竜神信仰

2. ニライ・カナイと海神
  1) ウンジャミと海神来訪
  2) ウムケー・オーホリと海神来訪
  3) 中国・台湾・韓国の海神来訪
  4)君真物とアカマター・クロマター

は じ め に
九州と台湾の間に点在する南西諸島は,トカラ列島以北のヤマト(本土)文化圏と
奄美大島以南の琉球文化圏にわけて見ることができる。

これまでの奄美・沖縄研究は,わずかの例外[伊藤 1974]を除いては,この地域
のみの研究に終始しているため,民俗事象の分布,変異状況,成立事情といったもの
が今一つ明瞭さを欠くうらみがあった。ヤマト・琉球の比較においては,その境界附
近の民俗研究が重要である。これが明らかでないと,ヤマト文化圏の個別の民俗事象
がどこまで南下しているのか,また琉球文化圏のそれがどこまで北上しているのかが
わからないから,結局,両文化圏の境界も設定できないし,その成立事情などはます
ますわからないのである。

本稿ではこの点に留意しつつ,また琉球文化圏に南隣…する台湾や中国南部の情況お
よびヤマト文化圏の西北に接する韓国南部の情況も考慮して論をすすめようと思う。
したがって南西諸島,なかでも奄美・沖縄の海神信仰は隣…接諸地域との比較の上で鮮
明化したいと思う。

南西諸島の海神もしくはそれをめぐる海の信仰は種類が多い。例えば,竜王,竜宮
の神,ニライ・カナイ,ウナリガミ,船霊,エビス,嬬祖(天妃),水死体などのほ
かに,金毘羅i,熊野,住吉などの信仰も見られる。これらのうち,金毘羅信仰は与論
島や沖永良部島にも見られるけれども,濃密に分布しているのはトカラ列島までであ
る。
  熊野信仰は沖縄本島の琉球八社のうち七社をはじめ各地に分布し,本土系海人族
の活発な航海活動の跡を見せていて,薩南諸島では種子島,硫黄島などに大きな痕跡
を残している。住吉信仰も種子島でさかんであるが沖縄本島まで南下している。これ
ら三つの本土系航海信仰は,琉球文化圏でさかんであるというにはほど遠く,その本
格的信仰活動はトカラ列島以北のヤマト文化圏において見られる。

1.竜神
竜神信仰は,竜王,竜宮の神,八大竜王,竜神などの呼称で日本列島全域に見られ
るけれども,南西諸島では竜王と竜宮の神の呼称が一般的であり,なかでも竜宮の神
が多い。
竜神信仰のわが国における起源は相当に古く,縄文土器の蛇飾りにその萌芽が認め
られ,弥生時代になると,明瞭に竜形をしたものが登場する。例えば種子島広田遺跡
出土の竜偲状の垂飾がある。同様のものが沖縄本島の地荒原貝塚および兼城貝塚でも
出土している。これらについて国分直一は,その原郷を華南に想定し,沖縄の竜形彫
刻は広田遺跡出土の竜偏形ペンダントよりもより早い波として到達したらしいと述べ
ている[国分 1976:440-447]。
文献上では『続日本紀』に「龍王」の文字が見え,『凌雲集』には「龍宮」の文字
が記されていて,やはり早くから竜神信仰があったことがわかる。また,仏教の八種
の竜王のうち,航海や雨乞いを司る婆伽羅王を中心とする八大竜王の信仰も古くから
各地に見られる。次にヤマト・琉球の二つの文化圏における竜神信仰の展開を検討し
てみよう。

1) ヤマト文化圏の竜神信仰
筆者は,佐渡および青森県,岩手県の小漁村を調査した結果,竜神信仰が広く普及
していることがわかった。例えば,佐渡の北小浦では,家の中の神棚に禅宗の寺の札,
伊勢神宮の大麻,エビスを祀ってあって,特に竜神はない。しかし,竜神は,村落の
お宮の庭に山形県鶴岡の善宝寺の竜王を勧請して祀った祠堂がある。航海安全と大漁
の神だという。
また,正月を迎えるに当って,家の外庭の先に海に向けて門松を立てて,餅や刺身,
御飯などをのせた膳をおいて沖を拝むという習俗がある。これを「竜王さん拝み」と
いうのだが,沖の海を拝む習俗と善宝寺信仰が習合したものと思われ,注目される。



周りを海に囲まれた奄美大島では、「ネリヤカナヤ信仰」というものが伝わってきました。海の向こうにはネリヤカナヤという神様の国があり、そこから恵みがもたらされるのだ、という信仰です。古来より人々は自然を大切にしてきました。海に対する思いは今も昔も変わりません。



媽祖   

媽祖各種表記繁体字簡体字拼音注音符号:発音:
Göttin Mazu.jpg
媽祖像(福建省湄洲島)
媽祖
妈祖
Māzǔ
ㄇㄚ ㄗㄨˇ
マーツー
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媽祖(まそ)は、航海漁業守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾福建省潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ広まった。親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もある。
天上聖母天妃娘娘海神娘娘媽祖菩薩などともいう。

用字

  「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない。「ま」と読む他の語の例としては「阿媽(あま)」がある。

媽祖伝承

  媽祖は代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は建隆元年(960年)、福建省興化府の官吏林愿の7女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが、16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神となったという伝承が伝わっている。

 なお、父を探しに船を出し遭難したという伝承もある。福建省にある媽祖島(馬祖島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている。

 媽祖信仰の盛んな浙江省舟山群島舟山市)には普陀山・洛迦山があり渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された。
 媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となった。

各地の信仰

中国

 媽祖は当初、航海など海に携わる事柄に利益があるとされ、福建省潮州など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、世祖の代(1281年)には護國明著天妃に、康熙23年(1684年)には天后に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。 媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の瀋陽や、華北の天津煙台青島をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた。

 こうして広まった媽祖信仰であるが、中華人民共和国政府は「迷信的・非科学的な活動の温床」ととらえ、厳しく規制した。特に文化大革命期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、改革開放の進展とともにこうした規制は次第に曖昧になり、80年代終わり頃から廟祠の復興が黙認されるようになった。

香港・マカオ

マカオの媽閣廟

 香港マカオでは文化大革命の影響をほとんど受けなかったこともあり、一貫して民間信仰が盛んである。各地に媽祖を祀った天后廟あるいは媽閣廟があるが、中でも香港の赤柱(スタンレイ)の天后廟、マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟(広東語マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねたポルトガル人が地名と勘違いしたことによると言われている。

 香港では他に、地下鉄の駅名になっている銅鑼湾の天后廟や、盛んな生誕祭を行う元朗の天后廟も有名である。香港の市街地にある天后廟は、埋め立てによって、海岸からかなり離れた位置になってしまったものが多いが、佛堂門天后廟のように、いまだに船で行かないと容易に近づけない海辺にあるものもある。
 佛堂門天后廟は、俗に大廟とも呼ばれ、1970年代までは、ビクトリア湾で生活していた蛋民の参詣で賑わい、車公廟、文武廟、黄大仙廟と並んで香港の四大廟とされた時代もあったが、現在は訪れる人も少なくなっている。

台湾

 台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い。

 台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定された。この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時規制された。なお台北最大規模だった「天后宮」は1908年に台湾総督府により撤去され、かわりに博物館(現 国立台湾博物館)が建てられた。

 日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の3月23日は媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている。

日本

横浜媽祖廟

 媽祖は日本在来の船玉信仰や神火霊験譚と結び付くなどして[1]、各地で信仰されるようになった。江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されている[2]
 江戸時代前期により来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市祇園寺に祀られている。また、それを模したとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町の弟橘比売神社(天妃神社)、小美玉市天聖寺にも祀られている。

 青森県大間町大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996年平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社は台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県北港朝天宮と姉妹宮である。
 2000年(平成12年)以降、長崎市長崎ランタンフェスティバルにおいて、長崎ネットワーク市民の会の企画運営で「媽祖行列」が行われている。興福寺に媽祖をお迎えすることで祭りが始まる。

 また、沖縄県八重瀬町港川にあるうたき、唐の船うたき(とうのふにうたき)は、かつてその地に難破した中国の貿易船の船員が建てた祠であり、媽祖が祀られている。

 なお、天母教日本統治時代の台湾に生まれた神道系の新宗教の一つである。その教義は、日本の天照大御神と媽姐が同一のものであるとするもので、台湾における民間宗教を取り込み、その教化を図ったものである
2006年(平成18年)3月17日、横浜市横浜媽祖廟[3]が落慶。2013年10月13日、東京都新宿区大久保東京媽祖廟が安座式典。[4]

ベトナム

チョロン地区のティエンハウ廟

 歴史的に中華文明の影響が強く、また華人も多く住むベトナムでも媽祖はThiên Hậu(天后、ティエンハウ)の名で親しまれている。19世紀には、広東系移民の多いチョロン(現在はホーチミン市の一部)に有名な「ティエンハウ廟英語版Chùa Bà Thiên Hậu、񣘠婆天后)」が建てられた。同じくチョロンにはHội quán Ôn Lăng(溫陵會館)、またの名をChùa Quan Âm(㕑觀音)があり、これも媽祖信仰の寺院である。
アンザン省チャウドックでは Bà Chúa Xứが有名である。

八幡浜お散歩

北九州 元寇資料館にはぜひ行きましょう。博多から一駅北の古塚駅から5分 福岡県庁の近く

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沿革

1904年(明治37年)に「元寇記念館」として設立されたが、これを東公園内の日蓮上人銅像護持教会敷地に移築して、1986年(昭和61年)に「元寇資料館」として再オープンした。

展示

展示室は元寇記念室と日蓮宗史、銅像史、武具の歴史、企画展示の二室からなり、元寇の際に鹵獲したモンゴル帝国軍の武器をはじめ、元寇に関する芸術品などが陳列されている。また、日清戦争で撃沈された清国海軍の戦艦「定遠」の護符も展示されている。

主な展示物

  • モンゴル型鎧
  • モンゴル型兜・短弓
  • 清国軍艦神符
  • 人形『侵略者を懲らしめる鎌倉武士』(白水六三郎・作)
  • 人形『日蓮上人佐渡流刑の景』(小島与一・作)
  • 絵画『元寇戦闘絵図』(矢田一嘯・画)
    • 元軍対馬襲来 島民を惨殺する之図
    • 元軍壱岐襲来之図
    • 壱岐守護代 平景隆一門自決する之図
    • 元軍九州博多再襲来之図  他


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元寇資料館
モンゴル型皮よろい

[転載]旧日本海軍の潜水艦発見か 五島列島沖海底で多数の船影 海保が調査

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旧日本海軍の潜水艦発見か 五島列島沖海底で多数の船影 海保が調査
     
    太平洋戦争終結後、米軍がハワイの真珠湾に運んだ旧日本海軍の「伊400型」潜水艦3隻=1946年1月(米海軍公式写真)
     海上保安庁は7日、長崎県の五島列島沖の海底で、戦後に米軍が旧日本海軍から接収し、海没処分した潜水艦とみられる24個の船影を見つけたと発表した。中には当時世界最大の潜水艦だった「伊400型」の1隻「伊402」とみられるものもあった。海保は「(潜水艦であれば)この海域で沈められたという過去の記録が裏付けられる」と説明。今後、詳細なデータの分析を進める。
     海保によると、船影が発見された海域は五島列島沖の水深約200メートルの海底。この海域では米軍が終戦後の昭和21年、旧日本海軍の潜水艦24隻を水没させたとする記録が残っていた。
     そのため付近で海底地形調査を進めていた測量船「海洋」が7月中旬、音波を使った最新型機材で調査を行ったところ、東西約4キロ、南北約2キロの範囲内に24個の船影を発見した。
     最も大きい船影は、長さ約120メートル、幅約15メートル、高さ約10メートルで、日本海軍が3隻所有していた伊400型の大きさと符号。うち唯一見つかっていなかった伊402とみられる。
     同型艦は水上爆撃機3機を搭載可能で、世界で類のない最新鋭の「海底空母」だったが、目立った戦歴がないまま終戦を迎えた。

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    転載元: 還暦の健康管理のブログ

    [転載]天正少年使節団報告書

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    天正少年使節団報告書

    『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

    日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

    数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。(「天皇の回ザリオ」からの引用



    水産庁九州漁業調整事務所(福岡市)は30日、長崎県・五島列島沖で停船命令に従わなかったとして漁業主権法違反(検査拒否)の疑いで中国サンゴ船を拿捕し、船長の鄭賢禄容疑者(43)を逮捕したと発表した。船にはほかに船員10人がおり、サンゴ漁具が積まれていた。鄭容疑者は「サンゴを密漁するつもりだった」と話しているという。
     逮捕容疑は28日夜、五島列島沖の日本の排他的経済水域(EEZ)で検査のための停船命令に従わなかった疑い。
     同事務所は29日に鄭容疑者を逮捕。担保金の支払いを保証する書面が提出され、同日釈放した。

    関連ニュース

    島民「中国になめられっ放し。撃て」 尖閣、小笠原“二正面作戦”に苦慮する海保…サンゴ密漁船団は中国政府の先兵か

    転載元: 還暦の健康管理のブログ

    [転載]江戸時代の五島列島は大半が福江藩(五島藩)五島氏の領地となり、小値賀島とその属島および中通島の最北端部は平戸藩の領地となっていた。

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    藩政時代以後

      江戸時代の五島列島は大半が福江藩五島藩五島氏の領地となり、小値賀島とその属島および中通島の最北端部は平戸藩の領地となっていた。
     このほか、福江藩の分家として福江島富江に富江陣屋を置いた富江領交代寄合)があり、中通島の一部などにも富江領が存在したが、福江領と富江領の領民間で漁業権などをめぐる衝突がしばしば起こった。
     五島氏の領地は明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に石田城が築城されて今日も福江の中心部に美しい石垣が残っている。

     明治に入り、富江領は本藩(福江藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。その後、鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地勢学上の重要性から大瀬埼灯台女島灯台などが建設されている。

     昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。
     この間、1962年(昭和37年)には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功し、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。

     近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。

    五島のキリスト教史

    1566年イエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらが五島にも来島してキリスト教カトリック)の布教を行っている。これを受けて翌年に領主宇久純定の子の宇久純尭洗礼を受け[18]1571年に家督を継いでキリシタン大名となっているが、五島のキリスト教はその直後から豊臣秀吉江戸幕府によるキリスト教禁止政策(禁教令)よって一度はほぼ完全に衰退している[19]

     秀吉の時代には九州各地にかなりキリスト教が浸透していたが、キリシタンへの迫害が始まると多くは棄教するか潜伏キリシタンとなった。1597年長崎で殉教した日本二十六聖人に中には五島出身の聖ヨハネ五島もおり、現在では福江島の堂崎天主堂に彼の殉教を祈念する像が建立されている。

     その後江戸時代中期に、五島藩は大村藩領からの開拓民を移住させる働きかけをし、1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住した。そのほとんどが潜伏キリシタンであったようだが、ここに五島におけるキリシタン信仰が秘密裏に復活した。彼らが藩から土地を与えられたことを知ると外海地方からの移住者が続々と増え、その数は3000名以上にも上ったといわれる。
     しかし、五島藩ではキリシタンに対する厳しい取り締まりはあまり行われなかったものの、今日のように信仰の自由が制度として保障されていたわけではなく、また、移民という立場から、五島の主だった港や平野部ではなく、山間部の僻地や、陸路での往来が困難な奥まった小さな入り江などに移り住んで小規模な集落を作った例が多い[20]
     五島の潜伏キリシタンは迫害の時期にあってはこのような集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。

     幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で浦上の潜伏キリシタンが信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に「浦上四番崩れ」という宗教弾圧を引き起こした。
     この頃には五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていったが、これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返した。久賀島では、200名の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている[21]


     このような迫害を耐え隠れて信仰を守り抜いた五島のキリシタン達は、その後明治政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂教会堂)を建てた。これらの教会は小規模のものが多いが、長崎にある日本最古のカトリック教会の国宝大浦天主堂建立直後といえる時期に建てられ既に100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた比較的新しい教会群とともに今も五島のカトリック信者の心のよりどころとなっている。また、明治期にカトリック教会に復帰することなく、先祖代々からのキリシタンの信仰を受け継いでいるカクレキリシタンの人たちもいて、近年は過疎化や生活習慣の変化のためその信仰伝承は途絶えてしまった所も多いが、いまもカクレの信仰を守る人も僅かながら存在する[22][23]

     五島は現在でもキリスト教徒(カトリック信徒)が比較的多い地域で、人口の10%以上がカトリックである[24]。五島の人にとっては小学校からカトリック信者のクラスメートがいるのはごく当たり前のことであり、いまはカトリックと仏教など他宗教との間に宗教上の争いなども特にない。五島列島であわせて51ヶ所のカトリック教会があり、教会のある風景は長く五島の日常となっているため、郷土五島のシンボルとして皆に愛されている。

     2007年1月23日には、文化庁が長崎の教会群とキリスト教関連遺産のユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リスト入りを決めた。長崎県内に12ある構成資産のうち、五島列島では4箇所の教会が構成資産に選ばれている[25]




    天正少年使節団報告書
     『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
     日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
     数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。」。(「天皇の回ザリオ」からの引用


    転載元: 還暦の健康管理のブログ

    [転載]五島列島

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    五島列島


    五島列島の位置


      五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島[1][2]。全島が長崎県に属し、人口は約7万人となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。
     島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、いまも漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。

     「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶことが多い。


    地理

      五島列島は長崎県に属し、九州西端の長崎県本土の西に位置し、北東側から中通島若松島奈留島久賀島福江島の五つの大きな島などからなる。国際水路機関による定義では、最も南西の福江島西端が日本海東シナ海の境界とされている[3]。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである[4]

      長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って溺れ谷となった複雑なリアス式海岸線をもつ地形である。

      五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では下五島が五島市、上五島が南松浦郡新上五島町に属する。「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。また、中通島の北にある宇久島小値賀島などの島々も、行政区域としては佐世保市北松浦郡小値賀町に属するもののフェリー貨物船航路や警察の管轄区域など上五島と共通することも多いため、五島列島の一部とみなされることが多い。

    五島列島を構成する島

    五島列島の島々。太字は有人島。配色は市町に対応する。
    黄:佐世保市、緑:小値賀町、青:新上五島町、桃:五島市、オレンジ:西海市
    それぞれの島の面積・人口は、2005年(平成17年)10月1日現在である[5]。なお、佐世保市(旧北松浦郡宇久町)・北松浦郡小値賀町の範囲についても記述する[6]

    佐世保市

    • 宇久島 - 面積:24.92km² 人口:3,216人
    • 寺島 - 面積:1.27km² 人口:23人

    北松浦郡小値賀町

    • 小値賀島 - 面積:12.22km² 人口:2,758人
    • 黒島 - 面積:0.24km² 人口:82人
    • 小黒島 - 面積:●km² (無人島)
    • 大島 - 面積:0.71km² 人口:93人
    • 斑島 - 面積:1.57km² 人口:272人
    • 納島 - 面積:0.65km² 人口:31人
    • 六島 - 面積:0.69km² 人口:31人
    • 野崎島 - 面積:7.10km² 人口:1人

    南松浦郡新上五島町

    • 中通島 - 面積:168.34km² 人口:22,834人
    • 頭ヶ島 - 面積:1.88km² 人口:19人
    • 折島 - 面積:0.32km² (無人島)
    • 桐ノ小島 - 面積:0.04km² 人口:8人
    • 若松島 - 面積:30.99km² 人口:1,935人
    • 漁生浦島 - 面積:0.65km² 人口:30人
    • 有福島 - 面積:2.97km² 人口:161人
    • 日島 - 面積:1.39km² 人口:52人

    五島市

    歴史

    上古時代から平安時代まで

      五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代にすでに人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。
      日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は最近でも中国ベトナムからの難民を乗せた船が何度も流れ着き、また台風の時は中国漁船の避難場所にもなっており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。肥前国風土記にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。
     このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。

     古事記国産みにおいて、イザナギイザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。
     古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残とされる。

     『日本書紀』天武天皇4年夏4月18日(675年5月17日)の条に「三位麻続王に罪があって因幡に流罪とした際、その子らを伊豆大島とともに「血鹿嶋」に流した」とある。
     「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
     740年天平12)に大宰少弐藤原広嗣が乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の宇久島)で逮捕され、断首されている。876年(貞観18)には、それぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。


    中世以降から五島藩の成立まで

     その後中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、中世に至ると松浦水軍の松浦党に属した宇久氏鎌倉時代以降に勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。
    また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。このように、中世以降の歴史においてもは大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。
    その後、豊臣秀吉が九州を征服すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。

    朝鮮出兵における五島勢

    ここでは、豊臣秀吉朝鮮出兵における、肥前国五島藩(福江藩、現長崎県五島列島)の動きについて述べる。

    朝鮮出兵の下準備

      天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉九州を平定した(九州征伐)。その際、宇久純玄(第20代当主)は、1万5,530石の本領を安著された。
      天正17年(1589年)、秀吉は奥州伊達政宗を降し、翌年北条氏直小田原に囲み滅ぼし(小田原征伐)、徳川家康関東に移封し天下統一をなした。
     国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。まず、朝鮮入貢を命じ、開かなければ討つ、と脅し対馬宗義調に折衝させ、同様にルソン高山国台湾)にも使者を出した。

     天正19年(1591年)、秀吉は配下武将に出兵軍役を命じ、甥の内大臣豊臣秀次関白を譲って自らは太閤となり、肥前名護屋に城を築きそこに入った。9月、平戸城松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、日野江城有馬晴信大村城大村喜前、五島城主五島純玄であった。宇久純玄はこの年、姓を五島に改めている。

     小西行長と、宗義調の子・義智は、対朝鮮平和的計画進行を秀吉に献策し許されると話し合いで解決しようと朝鮮に渡ったが成果が無かった。秀吉はその間に加藤清正らの九州の諸将を壱岐と対馬に待機させ、文禄元年(1592年)3月13日、予定通り、一番隊小西行長、宗義智ら1万8,700人を渡海させて朝鮮半島に上陸させた。

     続いて加藤清正の二番隊、黒田長政の三番隊というように九番隊まで総勢15万8,000人と九鬼嘉隆らの船奉行9,200人(後に水軍編成へ順次移行)を組織した。肥前の名護屋城には徳川家康前田利家上杉景勝伊達政宗ら兵十余万の予備軍団を待機させた。五島領主の五島純玄は、一番隊小西行長に属し、軍役担当に従って兵700を出陣させ、五島八郎兵衛盛長を城代留守役に命じた。

    五島勢が属する一番隊の編成
    総計 18,700人

    文禄の役での五島勢

     文禄元年(1592年)4月12日、朝鮮に進撃した五島勢は10月3日一番隊の先鋒となって奮戦し、釜山鎮城を即日攻略した。翌日には慶尚道東菜城を落とし、17日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃して慶尚道、忠清道、京畿道の諸城は戦わずして攻略した。秀吉侵攻軍はわずか19日で朝鮮の首都漢城を落とした。首都漢城占領に先立ち朝鮮国王は首都を捨てて逃亡し、民衆は暴徒化し景福宮奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院などに放火し消失させた。

     朝鮮水軍の李舜臣が釜山西方に展開中の日本船を攻撃し、数千の日本陸軍と水軍が対応の為に拘束された。また、釜山から漢城までの輸送路がゲリラ攻撃されると内陸部では兵糧備蓄の不安が起きた。7月には朝鮮の救援要請に答えた明の遼東副総兵・祖承訓北京の命令を待たず援軍を発した。祖承訓は朝鮮の義州から南下をはかり平壌城を攻めるが小西行長らに撃退された。

     文禄2年(1593年)正月、明は李如松を総兵官として4万3000の兵をもって、平壌の小西行長を包囲した。この戦いの際、一番隊の戦死者1600名で、五島勢でも太田弾正、江十郎、青方新八らが討ち死にした。行長は撤退を強いられ、漢城まで後退した。

     漢城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情が紛糾を極めた。そんな中勢いに乗った李如松が南下して漢城に迫った。隆景は宇喜多秀家立花宗茂吉川広家らとともに李如松を碧蹄館に迎え撃ち破った(碧蹄館の戦い)。この際、五島純玄も出陣していた。

     しかし兵糧不足に陥った日本軍は漢城を撤退し、釜山方面に集結した。両軍とも講和の機運が高まり、明から使者が来たのにともなって、和平交渉に入ったが折り合いがつかず難航した。
     このような最中、五島勢に一大事が起こった。陣中で疱瘡にかかった純玄が、7月28日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中で五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉青方善助らと協議し小西行長を訪れ、純玄の遺言を伝えた。行長はすぐに名護屋城に使いを走らせたが家臣一同の不安が解けないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家を相続するように勧めた。玄雅は一度拒み、行長はさらに甚吉を召して再協議し、玄雅を再度召して、留守役五島八郎兵衛の息子を養子として受け入れた上で五島家を相続することを勧めた。その条件で玄雅は第21代五島家当主になった。

     北京から明の使節がきた。慶長元年9月1日、大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分を見て激怒し、小西行長の和平交渉が詐欺であったことがわかり、この場で誅殺しようとした。西笑承兌の取り成しと行長自身の陳謝で行長は命を取り留めた。
    秀吉は再度出兵を命じた。

    慶長の役での五島勢

     慶長元年(1596年)9月、秀吉は再度朝鮮出兵の命を下した。秀吉の作戦目標は全羅道を徹底的に撃滅し、なるべく忠清道と京畿道にも進撃し、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を決め、その他の諸将は帰国させるというものだった。[1]在朝鮮の2万の守備軍を含め、総勢14万1500人が朝鮮半島に進撃を開始した。五島玄雅は、小西行長の軍に属し閑山島の攻略に参加し打ち破っている。

     日本軍は全羅道から忠清道の掃討を順調に行い、反撃してきた明軍を稷山の戦いで蹴散らし首都の漢城を脅かし、京畿道にも進撃して作戦目標を達成すると朝鮮南岸へ撤収して城郭の建設を始めた。

     慶長2年(1597年)12月、建設中の蔚山倭城が明の援将経理楊鎬の率いる5万7千の大軍に包囲された。蔚山城の守将浅野幸長と援軍に駆けつけた加藤清正は未完成の城と兵糧の備蓄など籠城の準備が整わない状態により苦しい戦いを強いられたが、幾度も明軍を撃退し、多くの死傷者を出した明軍の戦意を喪失させた[2]五島玄雅毛利秀元らの援軍に参加し、得意の水軍を率いてこれを救援、明軍の背後を突き突撃した。これを見た加藤・浅野の篭城軍は打って出て、明軍を破り追撃した。明軍の戦死者は2万にも達した[3]。慶長3年(1598年)1月1日のことだった。

     秀吉は、1月17日、寺沢広高を通じて玄雅に、「今度大明人蔚山取還之由注進付 而為後巻雖押出候敵引退之由 既に自此方も安芸中納言増田右衛門因幡但馬大和紀伊九鬼父子等可取立旨雖被仰付候右之分候間不及是非候 云々」の朱印状とともに、小袖一服、道服一服を与えた。
     さらに8月、玄雅がいったん帰朝して家督相続の御礼のために大坂城に伺候したさい、秀吉は抜群の戦功を愛でて「豊臣」の姓を名乗ることを許した。

     慶長3年(1598年)五島勢は、小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前とともに順天の東南10kmの光陽湾岸に築かれた順天倭城を守っていた。10月2日から4日にかけて明・朝鮮軍が水陸から順天倭城を攻撃したが、これを撃退する(順天の戦い)。
     この戦いに先立つ事8月18日、既に秀吉は逝去していたが、このことは在朝鮮日本軍には秘匿されていた。10月15日、五大老の名において在朝鮮日本軍に撤退命令が出され、朝鮮より撤退する事となったが、小西軍に属していた五島勢は共に明水軍・朝鮮水軍の海上封鎖を受けて撤退を阻害された。五島勢を含む小西軍を救うため、島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢広高は水軍を編成し救援に赴く。島津らの救援水軍に明・朝鮮の水軍が攻撃に向かって露梁海戦が起きた。

    転載元: 還暦の健康管理のブログ


    [転載]【五島列島ルポ】衰退する漁業…中国漁船の乱獲で追い打ち 「状況は尖閣と同じ」嘆く漁業者

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    http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130809/dms1308091158013-n1.htmより転載
    【五島列島ルポ】衰退する漁業…中国漁船の乱獲で追い打ち 「状況は尖閣と同じ」嘆く漁業者 (1/3ページ)
    2013.08.09
    玉之浦湾に緊急避難してきた中国の虎網漁船。その威圧感に島民はおののいた=昨年8月、長崎県五島市【拡大】
     中国の虎網漁船やかぶせ網漁船などによる乱獲が深刻化する東シナ海。
    その被害をもっとも受けているのが九州本土最西端に位置する五島列島だ。長年の漁業不振で漁業者が減り続ける中、中国漁船の乱獲により漁業も街も寂れるばかり。「日本の海」を守ってきた離島の漁業者たちの嘆きに胸が痛んだ。
     
     アジ、サバ、イワシなど遠洋巻き網漁業の基地である五島列島・奈良尾港(長崎県新上五島町)。夏休み中にもかかわらず観光客の姿はほとんどなく、港近くの「あこう通り商店街」は閑散としていた。
     「昔は『巻き網漁船に3、4年乗れば家が建つ』と言われるほど繁盛していたんですよ。今は若い人も『陸(おか)の仕事の方がよっぽど収入がいい』と言って漁師をやめてしまった。すっかり廃れてしまい、寂しい限りです…」
     奈良尾港を拠点に遠洋巻き網漁業を行う「まるの漁業」の野村俊郎社長(63)はこう嘆いた。
     
     奈良尾港に来訪したのは、「月夜間(つきよま)」と呼ばれる毎月6日間ほどの休漁期間だった。かつては岸壁に巻き網漁船がひしめき合っていたというが、停泊していたのはまるの漁業の第28野村丸など数隻のみ。
     
     それもそのはず。巻き網漁最盛期の昭和50年代、水産会社12社が五島列島に拠点を置き、25船団125隻が奈良尾、浜串両港を母港としていた。今は4社6船団30隻。両港界隈(旧奈良尾町)には5千人が暮らし、商店街も活気にあふれていたという。
     
     だが、現在の人口は半分以下。しかも高齢化率は41.4%と全国平均(23.3%)をはるかに上回る。
    地域医療拠点だった奈良尾病院は平成23年4月、医師不足のため入院できない無床診療所となった。
     
    × × ×
     
     港が寂れた理由は一つ。漁業がすさまじい勢いで衰退しているからだ。
     
     昭和52年の両港の水揚げは21万7千トン(249億円)に上ったが、平成23年は5万3千トン(73億5千万円)と3割に満たない。
    輸入増によりサバなどの魚価が下落した上、地球温暖化により漁獲量が減り続けている影響が大きいが、これに追い打ちをかけたのが、中国漁船による乱獲だ。
     
     特にここ3、4年は日中両国の排他的経済水域(EEZ)が重なり合う日中中間水域で中国漁船が急増している。五島列島の西約120キロにあるこの海域は、サバやアジの良好な漁場だったが、昨年だけで280隻以上の中国漁船が確認された。
     
     中でも悪質なのは虎網漁だ。日本の巻き網漁漁船よりはるかに大きい400~500トンの漁船が強力な集魚灯と全長1キロもある長大な網で魚群を一網打尽にする荒っぽい漁法であり、漁場は荒らされ放題。日本漁船が見つけた魚群を横取りすることも日常茶飯事で、最近は巨大なアームに付けた網で魚群をかっさらう「かぶせ網漁」も急増している。
     
     古くなった網を切断し不法投棄するケースも増加している。ここ数年、日本漁船のスクリューに浮遊する網がからまり、身動きできなくなる被害も相次ぐ。
     
     だが、EEZと違って中間水域では、水産庁の漁業取締船が取り締まることはできない。中間水域での日本漁船の操業は、虎網漁船の出現により、ますます減ってしまった。
     
     長崎県平戸市・生月島を拠点とする東洋漁業の徳永幸廣常務は悔しそうにこう打ち明けた。
     「中国漁船のやり方では東シナ海がどんどん枯れてていく。燃料代も高騰しているので、中国漁船がやりたい放題の中間水域までわざわざ漁に出るのは割に合わないのが現状です。本来はよい漁場なんですが…」
     
    × × ×
     
     五島列島の漁業者の大半は、近海での刺し網漁やはえ縄漁を営んでおり、沖合で中国漁船を目にする機会は滅多にない。
     
     ところが、昨年7月18日未明、東シナ海への台風接近を受け、操業中の虎網漁船106隻が玉之浦湾(五島市福江島)に避難してきた。
    事前連絡の上での緊急避難は合法であり、上陸しない限り問題はないが、過去には湾内に設置したハマチなどの養殖筏(いかだ)や定置網に中国漁船の錨(いかり)が引っかかる被害が出たり、船員が勝手に不法上陸して警察が捜索する騒ぎもあった。
     
     昨年はこのようなトラブルはなかったが、106隻はいずれも日本の巻き網漁船よりはるかに大きかった。かつて中国漁船は50トンほどのオンボロ船ばかりだっただけに島民たちは恐怖におののいた。
     
     その後も中国漁船の来襲は続き、8月24日にも89隻が大挙して押し寄せた。
    昨年中の緊急避難は計4回、延べ268隻に上る。
     
     避難先の入り江から2~3キロ離れた湾内には日本漁船が停泊する漁港がある。五島漁協玉之浦支所の山下真澄支所長はこう語った。
     
     「もし間違ってこっちの漁港に入ってこられたら被害はもっと大きい。五島は昔からずっとこういう思いをしているんです」
     
       × × ×
     
     平成23年11月、沿岸漁業者のテリトリーである五島列島沖の領海内で、海上保安庁巡視船が、停船命令に従わずに逃走した中国中型漁船の船長を漁業法違反容疑で逮捕した。
     
     尖閣諸島をめぐり日中間の緊張が続く中、海上保安庁の活動も尖閣周辺に集中している。
    当然、五島列島沖は手薄となっており、これに乗じて中国漁船が急増しているとみられる
     
     代わりに海の監視役を担ってきたのが日本漁船だが、国による補償はなく、乱暴な中国漁船とトラブルになり、船が損傷しても泣き寝入りするしかない。まるの漁業の谷綾一取締役総務部長はこう語った。
     
     「商売上、損をしてまで中間水域には行けない。ますます監視が手薄になり、相手は横暴になるという悪循環です。こういった問題が積み重なり、行き着いた先が尖閣諸島なんでしょうが、五島も同じような状況にあるんです」
     
     平成24年に改正された離島振興法では、対象となる離島を「わが国の領域、排他的経済水域の保全、海洋資源の利用(中略)などわが国の利益に重要な役割を担っている」と定めている。第28野村丸の吉本洋一郎漁労長(66)は自船を見上げながら嘆いた。
     
     「魚価は下がり続けているのに円安政策で燃料代は上がる一方です。漁師はみんな大変なんだが、国からの支援はあまりにも少ない。領海を守る力になりたいとは思うけど、国は農業に比べて漁業にあまりに冷たいんじゃないかな…」(田中一世)
     
    転載終わり
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    尖閣を守るということは、あくまで、日本の領土、領海、領空を守るということの代名詞に過ぎない。
     
    尖閣に、資源を集中投下するあまり、五島のように、守れない事態が、発生している。
    ならば、早急に、手を打つべきだろう。
    いまのところ、ここの守りを、尖閣のために手薄になる以前の状態まで戻すことには、
    別に、憲法改正も、憲法解釈の変更も必要はない。
     
    予算をつけて、人員を増員をするだけのことだ。
     
    必ずしも、守るというのは、軍事力を否定して、存在し得ないけれど、
    だからといって、軍事力だけの問題ではない。
     
    なぜ、政治は、できることから、さっさと手をつけないのだろうか?
     
    広範囲わたる防衛について、小さなことから積み重ねていく姿勢を、持つべきだろう。
     
    いわゆる、周辺国を刺激するな、という方々が、守ろうとする周辺国の存在によって、
    日本の資源が、強奪され、枯渇するかもしれないときに、国家として、ただ指をくわえてみているだけなのは、
    無能すぎる。
     
    この漁業の姿勢一つ見ても、中国の勢力が拡大していくことは、
    この地球を食い荒らすことでしかない、のが見てとれる。
    すべての国にとって、中国は危険な国であるということであり、
    この国を、押しとどめる力を、周辺国が持たない限り、
    地球人として、不幸を避けることはできない。
     
     
     

    転載元: hara123のメモ書き

    アッシリア人

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    アッシリア人

       
    アッシリア人
    ܣܘܪܝܝܐ / Sūryāyē/Suryoye
    総人口 居住地域イラクの旗 イラクシリアの旗 シリアイランの旗 イラントルコの旗 トルコアメリカ合衆国の旗 アメリカスウェーデンの旗 スウェーデンレバノンの旗 レバノンドイツの旗 ドイツブラジルの旗 ブラジルヨルダンの旗 ヨルダンオランダの旗 オランダオーストラリアの旗 オーストラリアインドの旗 インドカナダの旗 カナダイギリスの旗 イギリスロシアの旗 ロシアグルジアの旗 グルジアアルメニアの旗 アルメニア言語 宗教
    SyriacChurch-Mosul.jpg
    シリア正教会修道院での祝祭を写した写真の葉書。20世紀初頭のオスマン帝国領モスル(現イラク)にて。
    約330万人
    150,000人~830,000人
    52,000人~735,000人
    10,500人~103,000人
    4,000人~15,000人[1]
    350,000人
    120,000人
    100,000人
    90,000人
    80,000人
    44,000人
    40,000人
    38,000人
    30,000人
    23,000人
    8,000人
    14,000人
    23,000人
    15,000人
    アラム語(現代アラム語シリア語)、居住地域によってはアラビア語ペルシア語トルコ語なども併用
    ほとんどがキリスト教アッシリア東方教会カルデア教会シリア正教会など

     アッシリア人(-じん)とは、アラム語の1つ現代アラム語を話しキリスト教を信仰する中東少数民族。古来からアラブ人トルコ人クルド人トルクメン人などの異民族との競合や迫害を受けながらも、強固な民族意識により伝統的な文化を継承している。
     「シリア人」という意味の「スリョイェ」ܣܘܪܝܝܐ, Sūryāyē, Suryoye)を自称するが、シリア・アラブ共和国の国民との混同を避けるため、以下アッシリア人という表記を用いる。ドイツなどではアラム人Aramäer)と呼ばれる。なお、古代アッシリア人との遺伝的関係は明らかになっていない。


    分布

     主にイラク北部とシリア北東部、イラン北西部、トルコ東南部にまたがる地域に住み、自身はこの地域をベート・ナハライン(アラム語:ܒܝܬ ܢܗܪ̈ܝܢBet Nahrain。「2つの川(=ティグリス川ユーフラテス川)に挟まれた地域」の意。ギリシア語メソポタミアΜεσοποταμίαの語源)と呼ぶ。同時にこの地域はクルド人の住むクルディスタンとほぼ重なっている。

    イラク

    アルコーシュの町

     最も多くのアッシリア人を抱えるイラクでは、アッシリア東方教会とカルデア教会の信徒らが首都バグダードと北部クルディスタン地方のアルビールドホークニーナワーの3県とキルクーク市、特にアルビール県のアルコーシュ(アラム語: ܐܠܩܘܫAlqosh、アラビア語:القوشAl Qush)という町に集中、クルド人トルクメン人と共存している。ちなみにニーナワーの語源は古代アッシリアの首都ニネヴェである。

    シリア

     国全体では約70万人が住んでおり、特にトルコと国境を接する北部のカーミシュリーという町を中心におよそ3000人が集中している。シリア正教会の信徒が多い。

    トルコ

    アッシリア人の民族衣装を着る子供

     国内に約1万5000人が住んでおり、特に経済の中心イスタンブルや首都アンカラ、東南部(クルディスタン)のハッキャリ県と、シリアと国境を接するマルディン県の丘陵地帯トゥル・アブディン(アラム語:ܛܘܪ ܥܒܕܝܢTur Abdin)地方に集中している。トゥル・アブディンのアッシリア人はトゥロヨ(アラム語:ܛܘܪܝܐTuroyo。トゥル風、トゥルの人という意味)と呼ばれる西シリア語の一方言を話すことで知られ、シリア正教会の信徒が多い。そのため現地ではスルヤーニー(:Süryani。複数形:Süryaniler。シリア人の意)と呼ばれる。

     なおマルディン県のヌサイビン市(:Nusaybin)はかつてニシビスNisibis)と呼ばれ、異端とされたネストリウス派教団がビザンツ帝国エデッサから移ってきた際に本拠地とした場所である。

     またディヤルバクル県ヴァン県など東南部の他の地域にも少数が住んでいるが、大半は後述のオスマン帝国による虐殺や近年のクルド人民族主義者などの攻撃により殺されたり国外へ追放されたりしたため、現在では数世帯しかアッシリア人が住んでいない村もある。

    イラン

     首都テヘランと北西部、特に西アゼルバイジャン州の州都オルーミーイェ(英語名ウルミア Urmia。アラム語のウルミー ܐܘܪܡܝܐUrmiが語源とされる)を中心に国内に約2万人(1987年。イラン国内の全人口の1%以下)が住んでいる。

     オルーミーイェ湖周辺のアッシリア人は第一次世界大戦中の1914年、オスマン帝国軍に率いられたクルド人兵士とアゼルバイジャン人兵士らによる虐殺をアルメニア人とともに受けた。これに対しアッシリア人側はアルメニア人とともにアーガー・ペトロスw:Agha Petros)率いる自衛軍を結成、一時期はトルコを退けたものの、協力していたロシア軍も革命の勃発により撤退、さらにはアルメニア人兵団の壊滅や物資不足により大敗。1918年にはトルコによるさらなる迫害を受けることとなり、街の人口のほとんどがクルド人とアゼルバイジャン人に取って代わられることになった。

     後にパフラヴィー朝(イラン帝国)の初代皇帝レザー・シャーの統治下では、領内のアッシリア人に対しシリアやトルコに戻るよう勧奨があり、数千人が帰還したことがあった。イラン革命以前の1976年には3万2000人が暮らしていたが、イラン・イスラム共和国の成立により迫害を受け、多数が亡命した。(イスラム共和国の法律の基盤となるクルアーンシャリーアではキリスト教徒を「啓典の民」(ズィンミー)として扱い信仰の自由を保障しているが、代わりにジズヤ人頭税)の支払い義務などイスラム教徒よりも格段に劣った扱いをするよう明記されている)

    海外

     1914年に起こったオスマン帝国によるアッシリア虐殺(後述)以降、レバノンヨルダンパレスチナギリシアなどの周辺地域、ロシアアルメニア等の旧ソ連諸国、欧米、インドケララ州などでディアスポラによるコミュニティが誕生している。

    アメリカ合衆国

     世界中で最も多くのアッシリア系移民が暮らしており、特にイリノイ州シカゴミシガン州デトロイトカリフォルニア州中部のモデストなどに集中している。そのほかニューヨーク周辺に住むシリア正教会信徒のアッシリア人の一部はシリア人(英語:Syriac)と自称している。
    歴史
     アッシリア系アメリカ人の歴史は1909年に遡り、30世帯と600人の未婚者の移民がシカゴに定住したことに始まる。後に1910年代に起こった大虐殺により多くのアッシリア人が亡命、1920年代にシカゴやデトロイト、カリフォルニアなどに定住した。1940年8月12日付の米タイム誌のアッシリア総主教マル・エシャイ・シムン23世の訪米を記した記事では、あまりよく分析されていないものの米国内のアッシリア人の総数は70,000人であったと記している。

     1965年にはアメリカでの移民数の出身国割り当て規定が移民国籍法から削られたことにより、著しい数のカルデア教会の信徒がイラクからバアス党の圧制を逃れてデトロイトに移住。彼らは当初地元企業のフォード社の期間工として働いていたが、後に日本車との抗争や不況などの様々な要因でフォード社が不振に陥ると雇用が減少、取り残されたアッシリア人難民は商店を営むようになった。
     さらに1967年アフリカ系アメリカ人によるデトロイト暴動英語版の後、ユダヤ人商店主はデトロイトから逃げ出す時に積極的に経営を譲ってアッシリア系商店の件数が増加した。1980年代にはイラクのフセイン大統領(当時)がデトロイトのカルデア・カトリック教会に25万ドルを寄付したことが知られているが、これはバアス党がアッシリア人の反乱防止を計画して行ったこととされている。

     1979年のイラン革命とその後のイラン・イラク戦争湾岸戦争レバノン内戦や後のイスラエルのレバノン侵攻とそれに伴うヒズボラの活動の激化などここ30年ほど続く中東の動乱を逃れ、現在でもさらに多くのアッシリア人が中東各地からアメリカに亡命してきている。
     現在、合衆国内のアッシリア人の総数は82,355人(2000年)であり、その42%にあたる34,484人(2000年)がミシガン州在住である。

     ちなみにシカゴでは古代アッシリア帝国の王サルゴン2世の名を冠したサルゴン通り(Sargon Blvd.)と呼ばれる地名もある。

    スウェーデン

     1970年代から首都ストックホルムや南部のセーデルテリエに、レバノントルコからの移民が住んでいる。彼らの殆どは故郷でのイスラム教徒との宗教的対立が原因で逃れてきた者だったが、当初は難民として認められなかった。

    ドイツ

     ドイツのアッシリア系移民の中には難民のみでなく、1960年代から70年代にかけて外国人労働者(ガスターバイター)としてトルコから移住してきた人もいる。

    言語

     多くのアッシリア人は紀元前後にイエス・キリストパレスチナ地域のユダヤ人が話したアラム語(正確にはシリア語)の流れを汲み、アフロ・アジア語族中の北西セム語派の一言語現代アラム語(別名アッシリア語)を用いる。また宗教的儀式においては東西シリア語を用い、さらに併用として居住地域の公用語(例:アラビア語ペルシア語トルコ語英語など)を用いることがある。

     文字はアラム文字から発展したシリア文字(アラプ・ベート=アルファベット)を用いるが、アッシリア東方教会ではネストリウス体(東方書体)、シリア正教会ではセルトー体(西方書体)とそれぞれ使われる書体が異なる。

    ガンダーラ

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    ガンダーラ

       
    インド(紀元前6世紀)の十六大国
    左上の Gandhara がガンダーラ

     ガンダーラ(Gandhāra, Gandhara, Ghandara, Ghandahra, Chandahara, Gandara)は、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在した古代王国。カーブル川英語版北岸に位置し、その東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部まで達していた。[1]

      ガンダーラの王国は紀元前6世紀11世紀の間存続し、1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。1021年ガズナ朝スルタンマフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。イスラム支配下ではラホール、またはカーブルが周辺地域の中心となり、ムガル帝国の支配下ではカーブル州の一部とされた。


    地理

      ガンダーラはヴェーダ時代、カーブル河岸からインダス河口までをその疆域としていた。その領域はペシャーワル渓谷英語版として知られている。のちの時代にガンダーラ人英語版はインダス川を越え、パキスタンのパンジャーブ州北西部をも領土に含めた。
      ペルシアと中央アジアの重要な交通路であったガンダーラは国際的な商業都市として繁栄した。時代によって、ペシャーワル渓谷英語版タクシラスワート渓谷英語版をまとめてガンダーラの領域に含めることがあるが、中心地は常にペシャワール渓谷であった。王国の首都はチャルサッダ英語版(チャールサダ)、タクシラペシャーワル、末期にはインダスのフント英語版に置かれた。

    歴史

    アケメネス朝ペルシャの支配

     ガンダーラの名前は『リグ・ヴェーダ』にも現れているが、紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャキュロス大王、もしくはダレイオス1世によってその版図に組み込まれたことが分かっており、ペルセポリスのダレイオス1世碑には"GADARA"という名前が記録されている。
     ギリシアの歴史家ヘロドトスの著書『歴史』にはペルシャ帝国の20の属領が記されているが、そこではガンダーラはPaktuikeまたはペシャワール渓谷として記録されている。

    アレクサンドロス大王の東征と、マウリヤ朝の支配

     紀元前380年頃までにペルシャの支配は弱まり、多くの小王国がガンダーラを分割支配した。紀元前327年にはアレクサンドロス大王がガンダーラに侵攻したが、大王はこの地に1年も留まらなかった。同じ頃、マウリヤ朝チャンドラグプタ王はタクシラにあったが、紀元前305年にはセレウコス朝を破り、アフガニスタン南部を支配下に収めた。その後、1世紀半にわたりマウリヤ朝がこの地を支配した。
     チャンドラグプタの孫アショーカ王は熱心な仏教徒となり、ガンダーラに多くの仏塔を建立した。その後、マウリヤ朝が衰退してインド亜大陸に退くと、ギリシャ系のバクトリアがこの地に勢力を拡張した。紀元前185年頃、ガンダーラとパンジャーブはバクトリア王デメトリオス1世により征服された。その後、バクトリア分裂の後、ガンダーラ地方はバクトリア内部での独立した政権が支配した。

    メナンドロス王とインド・グリーク朝の支配

     インド・グリーク朝メナンドロス1世はガンダーラの最も有名な王である。仏教徒となった彼は『ミリンダ王の問い』として仏典に描かれ、多くの仏教徒によく知られる存在となった。紀元前140年頃にはメナンドロス王は死に、インド・グリーク朝の分裂が始まった。同じく、パルティア系民族により圧迫され、イラン高原からサカ族がガンダーラ地方へ移住した(インド・スキタイ王国)。
     現在のパキスタン北部、アフガニスタンで使用されているパシュトー語はこのサカ族の言語を起源としている。紀元前90年にはパルティアはイラン東部を支配下に収め、紀元前50年頃にはアフガニスタンに残る最後のギリシャ人勢力を駆逐した。パルティアはガンダーラにギリシャ的な芸術様式を持ち込んだギリシア系住民を一掃した。我々がガンダーラ美術の発展を見るのはこのときからである(紀元前50年75年)。

    クシャーナ朝治世下での黄金期

     ローマとの抗争や、紀元前92年ミトラダテス2世の死などによってパルティア王国が弱体化すると、パルティアの大貴族スーレーン氏族(王族から分岐した氏族)はインド・スキタイ人や大月氏によって占領されていた東方領土に侵入を開始した。パルティア人は、ガンダーラ地方でクシャーナ朝の王クジュラ・カドフィセスなど多くの地方領主と戦った後、全バクトリア北インドの広大な領域を支配下に治めた。
     20年頃、パルティア人の征服者の1人ゴンドファルネスは、パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設した。この王国は何とか1世紀ほど存続したが、北インド地方は75年頃にクシャーナ朝によって再征服された。
     この後、クシャーナ朝の支配下でガンダーラは黄金時代を迎える。ペシャーワル渓谷とタクシラにはこの時代の仏塔仏寺の遺構が数多く見られる。カニシカ王(在位:128年 - 151年)統治下にガンダーラ美術は繁栄し、多くの仏教建造物が建立された。カニシカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることになった最大の功労者だった。王のもとで、ガンダーラは周辺文明の中心となり、その地で栄えた仏教美術はアジア全域に広がった。
     ペシャーワルには120メートルもの巨大な仏塔が建立されたほか、数多くの仏教遺跡が残り、後世、東アジアからの巡礼地として神聖視された。カニシカの死後、王国は東方領土を失い始め、西方ではサーサーン朝の支配下に入った。しかし、クシャン族の族長の元で新しい仏塔は建立され続け、旧来のものは拡張された。仏寺には大仏像が建てられ、断崖には磨崖仏が彫られた。

    衰退

     450年頃、エフタルが侵入し、ヒンドゥー教が一時盛んとなったが、サーサーン朝が再び盛り返し、568年にはエフタルを駆逐した。644年にサーサーン朝がイスラム帝国に敗れると、ガンダーラはテュルク系民族によって支配され、ふたたび仏教が広まった。多くの中国からの仏教巡礼者による旅行記はガンダーラがこの数世紀の間に大きく変容したと記録している。次第にヒンズー教が隆盛となり、仏教寺院は次々と放棄されていった。その後、イスラム勢力が侵入し、ガンダーラの名は忘れられていった。

     現在のアフガニスタンのカンダハールという地名は、「ガンダーラ」に由来するという説が存在する[2]

    ガンダーラ美術

     ギリシャ、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術として有名である。開始時期はパルティア治世の紀元前50年-紀元75年とされ、クシャーナ朝治世の1世紀5世紀にその隆盛を極めた。インドで生まれた仏教は当初、仏陀そのものの偶像を崇拝することを否定していたが、この地でギリシャ文明と出会い、仏像を初めて生み出した。また大乗仏教も生まれた。
     「兜跋(とばつ)毘沙門天像」という頭に鳳凰のついた冠をかぶった像が存在し、毘沙門天の起源がギリシア神話ヘルメース(ローマのメルクリウス)であるという説がある。5世紀にはこの地にエフタルが侵入し、その繁栄は終わりを告げた。

    ドーバー海峡

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    ドーバー海峡

       
    ドーバー海峡の地図
    ドーバー海峡の衛星画像
    ドーバー海峡(ドーバーかいきょう、英語: Strait of Dover)はイギリスフランスを隔てるイギリス海峡の最狭部である。フランスではカレー海峡Pas de Calais)と呼ばれる。


    概要

      国際水路機関 (IHO) による海域分類では、北東の北海と南西のイギリス海峡の境界付近にある。ただし、イギリス海峡を広義の大西洋の一部とし「大西洋と北海の境」、あるいは、イギリス海峡の一部と考え「イギリス海峡の最狭部」ととらえることもある。
     最狭部はケント州フォーランドパ=ド=カレー県カレーで、34キロメートル。呼称はイギリス側の都市、ドーバー市に由来する。
     かつては唯一の海峡を渡る手段としてフェリーが利用されていたが、現在はフォークトン、カレー間に英仏海峡トンネルが開通している、国際高速列車ユーロスターアッシュフォード乗り換えで利用できる。
    名称は、IHO によれば、現在はドーバー海峡とカレー海峡の併記となっている。
    ドーバーの白い崖

    成り立ち

     海峡の両側の英仏とも海底含め同じ岩石であるチョークで出来ており、海峡になる前の氷河期には地続きであったと考えられる。これより北海側に存在した氷河との間に、ライン川やテムズ川から流れてきた水が湖を形成したが、何らかの作用で決壊し浸食した所が現在の海峡で、氷河期後に海面下に没したものと推定されている。

    歴史

     第一次世界大戦中、ドイツ海軍駆逐艦部隊がドーバー海峡に浸入し、1つの部隊がドーバーを砲撃し、もう1つの部隊は対岸のカレーに砲撃をした。その翌日に砲撃を加えたドイツ駆逐艦とイギリス海軍の駆逐艦との間でドーバー海峡の海戦が起きた。
     第二次世界大戦ではナチス・ドイツが海峡を越えてイギリス本土を砲撃出来る多薬室砲も研究していたが開発には失敗した。

    英仏海峡トンネル

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    移動先: 案内検索
    英仏海峡トンネル概要位置
    現況起点終点運用開通所有管理用途技術情報線路長軌道数軌間電化の有無
    Course Channeltunnel en.svg
    英仏海峡トンネルの経路図
    イギリス海峡
    (ドーバー海峡)
     / 51.097083; 1.15583 (フォークストン 入り口)  / 50.92278; 1.7806000 (コケル 入り口)
    供用中
    イギリス
    ケントフォークストン
    フランス
    パ=ド=カレー県コケル
    1994年5月6日(開通式)
    1994年11月14日(ユーロスター開業)
    ユーロトンネル
    ユーロトンネルユーロスターDBシェンカーフランス国鉄
    鉄道・道路トンネル
    50.45 km (31.35 mi)
    2路線の単線トンネル
    標準軌 1,435 mm
    25 kV ACOHLE

     英仏海峡トンネル(えいふつかいきょうトンネル)は、イギリスヨーロッパ大陸フランス)間のドーバー海峡(英仏海峡)を結ぶ鉄道用海底トンネルである。チャネル・トンネル(英国名 the Channel Tunnelチャヌル・タヌル、仏名 le Tunnel sous la Mancheル・テュネル・ス・ラ・マンシュ)、ドーバー海峡トンネルともいう。ユーロトンネルは、本トンネルの運営会社であって、トンネル自体の名称ではない。

    構造

     海底中央部分で交差する直径7.6メートルのレールトンネル(鉄道トンネル)2本と、その真中にある4.8メートルのサービストンネルの3本のトンネルから成り、3本のトンネルをつなぐ連絡通路が各所に設けられる。2本のレールトンネルにはさらに列車の進行に伴って生ずる風圧を逃がすためのダクトが複数設けられている。
     海底部の総距離では青函トンネルを抜いて世界一の37.9kmであるが、陸上部を含めた全長は50.5kmで、これは青函トンネルに次いで世界第2位である。

    データ

    • 全長:50.49km
    • 海底部長:37.9km
    • 水深(最大):60m
    • 軌間(レール幅):標準軌(1435 mm)
    • 構造:2本の本トンネルとサービストンネル
    • 掘削方法:TBM工法M及びシールド工法
    • 建設費用:約1兆8000億円

    建設

    英仏海峡トンネルイギリスのフォークストン側の出口遠景(写真中央からやや左が実際の出口)

     英仏海峡トンネルは主にTBM工法で作られたが、シールド工法も可能なTBMが使われ、地盤が弱い区間などでシールド工法が用いられた。
    計11機(イギリス製6機、日本製4機、アメリカ製1機)のTBMが発注され、イギリス側から6機、フランス側から5機で掘り進められた。日本製のうち2機は川崎重工業製である。

     フランス側からの掘削に参加した川崎重工業が、かなりの難工事をこなしたことで、『プロジェクトX』にも取り上げられている(放送は2001年9月25日)。他にはen:George Wimpeyベクテルが施工に参加している。

     通常、トンネルの両端から掘り進むTBMは、トンネル中央部まで来ると、自身をトンネル構造物の一部にしたり、左右に掘り進んでトンネル経路を外れそのまま埋めて投棄する。TBMが各建設事業ごとのオーダーメイドで他の工事では使えないこと、地上まで運び出すよりは埋めてしまったほうが安上がりなことなどから、このような方法がとられる。イギリス側のTBMは掘削完了後、トンネル経路より下方向に潜り込ませ投棄されたが、フランス側のロビンス/コマツ、ロビンス/川崎重工業のTBMはイギリスまで進み、地上に記念展示されたのち分解された。

    産業革命

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    産業革命   

     産業革命(さんぎょうかくめい、: Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。

     経済史において、それまで安定していた一人あたりGDPが産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったとも言え、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。

     また産業革命を「工業化」という見方をする事もあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。 ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に産業革命という用語が用いられている。

    概要

     「産業革命」という言葉が初めて使われたのは1837年、経済学者のジェローム=アドルフ・ブランキによってである。その後、1844年フリードリヒ・エンゲルスによって広まり、アーノルド・トインビーが著作の中で使用したことから学術用語として定着した。
     もともとは1760年代から1830年代にかけてイギリスで起こった「最初の」産業革命を指した言葉だが、いわゆる発展段階論において市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされたため、イギリスを皮切りにベルギーフランスアメリカドイツロシア日本といった風に順次各国でも産業革命が起こったとされた。

     イギリスで産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場としての植民地の存在、清教徒革命名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、および農業革命によってもたらされた労働力、などが挙げられる。これらの条件の多くはフランスでもそれほど変わることはなかったが、唯一決定的に違ったのが、植民地の有無である。

     イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年パリ条約によってである。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。
     いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは近代世界システムにおける覇権国家の地位を決定づけたのである[1]

     イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って漸進的に進行した。またイギリスに限らず西ヨーロッパ地域では「産業革命」に先行してプロト工業化と呼ばれる技術革新が存在した。そのため、そもそも「産業革命」のような長期的かつ緩慢で、唯一でもない進歩が「革命」と呼ぶに値するか、という議論もある。

     初期の軽工業中心のころを「第一次産業革命」、電気石油による重化学工業への移行後を「第二次産業革命」、原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼ぶ立場があるが、このような技術形態に重きを置く産業革命の理解からは、「産業革命不在説」に対する有力な反論は出にくい。そのため、現在では産業の変化とそれに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、「工業化」という言葉で表されることが多い。ただし、イギリスの事例については依然として「産業革命」という言葉も使われている。

     イギリスについて目を向ければ、労働者階級の成立、中流階級の成長、および地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や消費社会の定着など、1760年代から1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。また世界史に目を向ければ、最初の工業化であるイギリス産業革命を期に、奴隷貿易を含む貿易の拡大や、現在にも繋がる国際分業体制の確立といった地球規模での大変化が始まったとも言える。

     この世界規模での影響(負の側面も含めて)は、先行するプロト工業化などではなかったものである。そのため、産業革命は単なる技術上の変化としてではなく、また一国単位の出来事としてでもなく、より広い見地から理解される必要がある[2]

    イギリス産業革命の前提条件

    毛織物工業と資本

     産業革命に先行して、イギリスでは新毛織物と呼ばれる薄手の羊毛製品の製造が盛んであった。もともとイギリスでは中世末期から毛織物が盛んで、フランドルなどに比較的厚手の半完成品を輸出していた。この種の毛織物は新毛織物に対して、旧毛織物と呼ばれる。

     その後、毛織物の主流は新毛織物へと変わり、当初イギリスはフランスやネーデルラントなどから新毛織物を輸入していたが、宗教改革後のスペインとの関係悪化により輸入が停止すると、ネーデルラント独立戦争の混乱を避け大陸から逃れてきた新教徒を集めて、自国での生産を開始する。

     地方の地主、いわゆるジェントリたちがこの種の産業の担い手であったが、こういった農村工業の進展はプロト工業化と呼ばれる。毛織物工業で蓄積された資本は、後に綿織物工業に利用され、産業革命につながったとされるが、初期の綿織物工業にはそれほど大きな設備投資が必要ではなく、毛織物の担い手であったジェントリ以外にも雑多な職業人間が参入していたことが分かっている。彼らの多くは蓄積された資本ではなく、借金によって必要な資金を賄ったといわれ、柔軟な資金供給が当時としては問題であったとも言われる。

    労働力

    1814年当時の鉱夫 

     18世紀から19世紀にかけて、西ヨーロッパにおいて一連の農業技術上の改革(イギリスでは特に農業革命と呼ばれる)があった。休耕地を無くした四輪作の導入、囲い込みによる集約的土地利用などによって、食料生産が飛躍的に伸びた一方で、中小の農民は自営農から賃金労働者に転落した。しかし、賃金労働者となったとは言っても、従来言われたように職を失い都市部に流入したわけではない。

     農業革命による新農法は広い土地を必要としたものの、依然耕作のための人手も必要としており、自営農であった者たちは同じ土地でそのまま農業労働者となったと言うのが正しい。むしろ食料生産の増加によってもたらされた人口の増加によって、産業革命に必要な労働力は賄われたといえる。

     この人口増加は、イギリスに限らず西ヨーロッパ全域でおこっており、人口革命とも呼ばれる。またこの他にもアイルランドからの人口流入も労働力需要に応えたが、競争にさらされることとなったプロテスタント系イギリス労働者との間に軋轢を引き起こし、1780年ロンドンで発生した反カトリック暴動の原因ともなった。

    海外植民地

     資本の蓄積にしろ、人口増加にせよ、イギリス固有というよりもヨーロッパに共通の事柄であり、現在よく言われる様に、産業革命前夜のイギリスとフランスではさしたる差は存在しなかった。むしろ手工業という点ではイギリスよりもヨーロッパ大陸諸国の方が若干発達していたともされる。

     フランスで起きなかった産業革命がイギリスで起こった原因は、イギリスにあってフランスに無かったもの、つまり広大な海外植民地であった。初期の産業革命で生産された雑工業製品の多くがヨーロッパ外の地域に向けられた事からも産業革命における海外植民地の重要性を見て取る事ができる。

    需要と市場保護

     インド産キャラコによって綿織物に対する需要が生み出されたが、ほどなく産地を問わずキャラコの輸入は禁止された。この措置は国内綿織物産業の保護策として働き、国産綿織物の躍進へつながった。さらに生活革命により、その他の雑工業製品に対する需要は飛躍的に大きくなった。これにより工業化がもたらす商品生産能力向上を吸収・消費する国内市場が形成された。

    産業革命の進展

    織機・紡績機の改良

    水力紡績機を開発したリチャード・アークライト
    1733年ジョン・ケイが、織機の一部分であるを改良した飛び杼(flying shuttle)を発明して織機が高速化された。これは行程の一つの改善でしかなかったが、これにより綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。そのため、旺盛な需要に応じるために1764年ハーグリーブスジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本(のちに16本に改良)の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であった。
    1771年リチャード・アークライト水力紡績機を開発した。これは綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小形のものではなく、人間の力では動かない大形の機械であったので、水力を利用したものである。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据え付けて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これにより、大量生産が可能になり、立地に制約がなくなったうえに紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業のはじまりとなった。
    そしてこれらの特徴を併せ持ったサミュエル・クロンプトンミュール紡績機1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとしてうまれたのがミュール紡績機であった。ミュールとはラバのことで、要するにウマロバの長所を採ったという意味である。
    これらを受けてエドモンド・カートライト蒸気機関を動力とした力織機1785年に発明し、さらに生産速度は上がった。
    これらのように、問題点の改良が各地で行われた結果として、生産性が加速度的に向上することとなった。問題点の解決が、生産余剰を生み出すと、次のプロセスが生産効率を揚げるという、相乗効果の中で、最終的な生産物が過去とは比較できない比率で生産出来るようになった。

    製鉄技術の改良

    ワットの改良蒸気機関
    繊維業とならんでイギリス産業革命の推進役となったのが製鉄業である。イギリスでは既に16世紀頃から鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに木材が深刻に不足し、17世紀にはロシアスウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。
    18世紀に入り、コークス製鉄法エイブラハム・ダービーによって開発されたことで状況は一変する。コークスは石炭から作られ、イギリスには石炭が豊富に存在したからである。その後更に改良が加えられ、19世紀始めには良質の鋼鉄も作られるようになった。
    この様な鉄の需要は、はじめのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業機械や鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていった。イギリスで作られた工業機械は、海外へ輸出され、ドイツなどの工業化を進めることとなった。

    動力源の開発

    1781年完成のイギリス・シュロップシャーの鉄橋
    石炭の採掘が盛んになると、炭坑に溜まる地下水の処理が問題となった。こうした中、1712年ニューコメンによって蒸気機関を用いた排水ポンプが実用化された。
    1785年ワットが蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。それまで工場は水力を利用するために川沿いに建設するほかなかったが、ワットが蒸気機関を改良したことによって、川を離れ都市近郊に工場を建設することが可能となった。これにより新興商工業都市は更なる成長を遂げるが、一方で過密による住環境の悪化を招くこととなる。

    移動手段の発達[編集]

    1807年フルトンによって蒸気船が実用化された。また1804年トレビシックにより蒸気機関車が発明され、その後蒸気機関車はスチーブンソンによって改良された。
    河川や既存の運河を利用できる蒸気船はともかく、蒸気機関車を利用するためには線路を敷設する必要があったため、その効果が現れるまで時間がかかったが1830年代後半になると鉄道網の整備が進み始め、1850年までには6000マイルの鉄道が開通した[3]。これらの移動手段の発達は「交通革命」と呼ばれる。
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