1850年代の東アジア2 ジョン万次郎、1851年 琉球へ帰国、薩摩、長崎、土佐へ
ジョン万次郎について振り返りたい。彼は昨年の大河ドラマ「篤姫」でもたくさん登場した。彼を用いた人達は立派だったと思う。
今回は、おもに琉球での生活について調べてみた。
彼は1841年に漁に出て遭難し、鳥島に漂着して143日間を生活、ジョン・ハウランド号に救助された。仲間はハワイで降ろされたが、ホイットフィールド船長に気に入られた万次郎は、そのままアメリカへ向かった。彼の養子となって、熱心に勉強し、捕鯨船フランクリン号の副船長になる。近郊で得た資金で船を購入し、アドベンチャー号とし、ハワイへ向かった。
そして1851年、25歳で琉球に上陸するのだが、ここからいくつかの記事を引用して具体化してみたい。
きじろうのチョッとHITOKOTO
http://ys-toyonaka.holy.jp/kijirou22.htm
によると、
「(1850年)12月8日上海に行く茶積船サラ・ボイド号(船長ホイット モア)が(ホノルルに)入港、万次郎も知っているので、途中琉球に下ろしてもらう快諾を得、牧師は航海に必要な品々を揃えてくれ、米国領事に証明書を発行させ、伝蔵(筆之丞)五右衛門と共にホノルルを出港、日本に帰れば死刑になると言う船長の言葉を押し切って、1851年2月3日ボートで摩文仁東10キロの小渡浜海岸に上陸する。日本土佐を出航して10年1ヶ月目の帰国である。」
市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語~豊見城編」(原作、長田亮一「ジョン万次郎物語」)の記事によると、
「万次郎が1851年2月に糸満市に上陸した後、薩摩の監視下、豊見城市翁長の高安家で半年を過ごした際の村人たちとの心温まる交流」を描いている。
市民劇「ジョン万次郎物語」、本番を控えけいこに熱-豊見城 - 琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-105042-storytopic-86.html
ジョン万次郎と豊見城の高安家、子孫同士が対面 - 琉球新報 -
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-100926-storytopic-86.html
によると、
「万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。」
また、
きじろうのチョッとHITOKOTO その2
http://ys-toyonaka.holy.jp/kijirou23.htm
によると、
「 琉球小渡浜にボートで上陸した万次郎達は、摩文仁間切番所に連行され、簡単な取調べの上、那覇に送られるが途中で豊見村翁長に変更し、高安家に預けられる。那覇には英国宣教師ベッテルハイムがいて、会わせない為だったが、翁長では丁重なもてなしを受けた。それは先年琉球の人達が土佐に漂着し、親切にしてもらった恩に報いるためであった。
薩摩送りとなり、1851年8月27日鹿児島に着き、西田下会所が宿舎となる。43才の新藩主島津斉彬は西洋文化を取り入れ新しい藩政に取り組んでおり、人払いをして酒肴を共にして、海外事情など聞いたと言われる。洋式船の雛形、設計図も作っている。
1ヶ月の薩摩滞在から法に従って長崎に送られるが、此処では罪人扱いで揚り屋(牢)入りとなり、奉行牧志摩守により18回の取調べがあり、所持品の辞書、算数や航海術などの教科書、時計や銃など総ての品、唯一の生活資金「金塊」も没収された。」
「 長崎奉行は幕府に報告、幕府より土佐藩に引取りの命があり、17名の出迎え人と共に1852年8月25日高知城下に到着した。藩主山内容堂公は21才、英明で進歩的な考えを持ち、大目付吉田東洋をして聞き書きの「表客談奇」3巻を発刊されている。」
「進歩的な薩摩藩主、土佐藩主に外国事情を説明し、目を覚まさせた事。次記する土佐教授館では坂本竜馬(1835-67)後藤象二郎(1838-97)岩崎弥太郎(1834-85)などの逸材を育て、江戸では幕臣御普請役として、江川太郎左衛門(1801-55)勝海舟(1823-99)に引き立てられたのも、万次郎が如何に優れた人物であつた事が伺われる。」
「 折から1853年7月8日ペリー艦隊が浦賀に入港し、フィルモア大統領の親書を浦賀奉行が受け取り、返書受領のため再来するので、土佐藩に対し万次郎を江戸に出府を命じた。
老中安部伊勢守は直々万次郎を召し出した。万次郎の説明に居並ぶ重臣は皆感嘆したと言う。
中でも韮山代官江川太郎左衛門は人格高潔で砲術に達しており、万次郎を屋敷内に住まわせ米国を学んだ。長崎で没収されたものも総て返却させた。さらに御普請役、中萬次郎信忠と命名、幕府直参に召抱えられた。幕臣としての万次郎は、日本開国のため、様々な良き働きをしているが、今回はその「年譜」のみを辿ることとし、「咸臨丸」についてのみ詳細を考察する。
1854年 江川太郎左衛門の下で洋式船建造。ペリー二回目の来航。和親条約締結。
1857年 軍艦教授所の教授に任命される。重要な「ボーデイツチ航海書」を翻訳完成。 捕鯨術伝授の為二度に亘り函館出張。長男東一郎誕生。(後に医師として大成する) 」
1850年代初期には、太平洋航路が開拓され、頻繁に船が行き来している様子が改めてよく分った。
次回は、ペリー来航についてまとめてみたい。ペリー艦隊も、最初に琉球に入っている。琉球の持つ意味はきわめて大きい。
また、ジョセフ・ヒコについてもまとめてみたい。彼も幕末の政治に大きく関わった。
ジョン万次郎について振り返りたい。彼は昨年の大河ドラマ「篤姫」でもたくさん登場した。彼を用いた人達は立派だったと思う。
今回は、おもに琉球での生活について調べてみた。
彼は1841年に漁に出て遭難し、鳥島に漂着して143日間を生活、ジョン・ハウランド号に救助された。仲間はハワイで降ろされたが、ホイットフィールド船長に気に入られた万次郎は、そのままアメリカへ向かった。彼の養子となって、熱心に勉強し、捕鯨船フランクリン号の副船長になる。近郊で得た資金で船を購入し、アドベンチャー号とし、ハワイへ向かった。
そして1851年、25歳で琉球に上陸するのだが、ここからいくつかの記事を引用して具体化してみたい。
きじろうのチョッとHITOKOTO
http://ys-toyonaka.holy.jp/kijirou22.htm
によると、
「(1850年)12月8日上海に行く茶積船サラ・ボイド号(船長ホイット モア)が(ホノルルに)入港、万次郎も知っているので、途中琉球に下ろしてもらう快諾を得、牧師は航海に必要な品々を揃えてくれ、米国領事に証明書を発行させ、伝蔵(筆之丞)五右衛門と共にホノルルを出港、日本に帰れば死刑になると言う船長の言葉を押し切って、1851年2月3日ボートで摩文仁東10キロの小渡浜海岸に上陸する。日本土佐を出航して10年1ヶ月目の帰国である。」
市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語~豊見城編」(原作、長田亮一「ジョン万次郎物語」)の記事によると、
「万次郎が1851年2月に糸満市に上陸した後、薩摩の監視下、豊見城市翁長の高安家で半年を過ごした際の村人たちとの心温まる交流」を描いている。
市民劇「ジョン万次郎物語」、本番を控えけいこに熱-豊見城 - 琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-105042-storytopic-86.html
ジョン万次郎と豊見城の高安家、子孫同士が対面 - 琉球新報 -
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-100926-storytopic-86.html
によると、
「万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。」
また、
きじろうのチョッとHITOKOTO その2
http://ys-toyonaka.holy.jp/kijirou23.htm
によると、
「 琉球小渡浜にボートで上陸した万次郎達は、摩文仁間切番所に連行され、簡単な取調べの上、那覇に送られるが途中で豊見村翁長に変更し、高安家に預けられる。那覇には英国宣教師ベッテルハイムがいて、会わせない為だったが、翁長では丁重なもてなしを受けた。それは先年琉球の人達が土佐に漂着し、親切にしてもらった恩に報いるためであった。
薩摩送りとなり、1851年8月27日鹿児島に着き、西田下会所が宿舎となる。43才の新藩主島津斉彬は西洋文化を取り入れ新しい藩政に取り組んでおり、人払いをして酒肴を共にして、海外事情など聞いたと言われる。洋式船の雛形、設計図も作っている。
1ヶ月の薩摩滞在から法に従って長崎に送られるが、此処では罪人扱いで揚り屋(牢)入りとなり、奉行牧志摩守により18回の取調べがあり、所持品の辞書、算数や航海術などの教科書、時計や銃など総ての品、唯一の生活資金「金塊」も没収された。」
「 長崎奉行は幕府に報告、幕府より土佐藩に引取りの命があり、17名の出迎え人と共に1852年8月25日高知城下に到着した。藩主山内容堂公は21才、英明で進歩的な考えを持ち、大目付吉田東洋をして聞き書きの「表客談奇」3巻を発刊されている。」
「進歩的な薩摩藩主、土佐藩主に外国事情を説明し、目を覚まさせた事。次記する土佐教授館では坂本竜馬(1835-67)後藤象二郎(1838-97)岩崎弥太郎(1834-85)などの逸材を育て、江戸では幕臣御普請役として、江川太郎左衛門(1801-55)勝海舟(1823-99)に引き立てられたのも、万次郎が如何に優れた人物であつた事が伺われる。」
「 折から1853年7月8日ペリー艦隊が浦賀に入港し、フィルモア大統領の親書を浦賀奉行が受け取り、返書受領のため再来するので、土佐藩に対し万次郎を江戸に出府を命じた。
老中安部伊勢守は直々万次郎を召し出した。万次郎の説明に居並ぶ重臣は皆感嘆したと言う。
中でも韮山代官江川太郎左衛門は人格高潔で砲術に達しており、万次郎を屋敷内に住まわせ米国を学んだ。長崎で没収されたものも総て返却させた。さらに御普請役、中萬次郎信忠と命名、幕府直参に召抱えられた。幕臣としての万次郎は、日本開国のため、様々な良き働きをしているが、今回はその「年譜」のみを辿ることとし、「咸臨丸」についてのみ詳細を考察する。
1854年 江川太郎左衛門の下で洋式船建造。ペリー二回目の来航。和親条約締結。
1857年 軍艦教授所の教授に任命される。重要な「ボーデイツチ航海書」を翻訳完成。 捕鯨術伝授の為二度に亘り函館出張。長男東一郎誕生。(後に医師として大成する) 」
1850年代初期には、太平洋航路が開拓され、頻繁に船が行き来している様子が改めてよく分った。
次回は、ペリー来航についてまとめてみたい。ペリー艦隊も、最初に琉球に入っている。琉球の持つ意味はきわめて大きい。
また、ジョセフ・ヒコについてもまとめてみたい。彼も幕末の政治に大きく関わった。